出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1183 伊佐襄『正しい英語の知識』とユスポフ『ラスプーチン暗殺秘録』

 前回の伊佐襄と高橋襄治に関してもネット検索したところ、後者はヒットしなかったけれど、前者には『ラスプーチン暗殺秘録』や『正しい英語の知識』という訳書、著書があるとわかった。そこでこれらも早速入手することになった。
 
 先に『正しい英語の知識』を示せば、並製四六判、一四〇ページの英語学習書である。なぜかこの種の書に不可欠な著者の経歴が付されていないが、その「序」はあり、「英語を話し、読み、書くといふことが、今、どのやうに差し迫つた必要事であるかは、こゝに贅言するまでもないこと」と始まり、それが敗戦、占領下の一年後の「1946、8月」の日付で書かれているのは、まさに英語が「差し迫つた必要事」となっている社会状況と伝えているのだろう。
 
 前年には戦後最大のベストセラー『日米会話手帳』(誠文堂新光社)が出され、それに続いて類書も続出し、これらも十万部を超えるベストセラーになったとされる。それらの出版事情に加えて、『正しい英語の知識』の第一編「名詞」の最初の例文が「我等は日本人だ」の訳がWe are Japaneseとして出てくるのは象徴的である。

f:id:OdaMitsuo:20210808120342j:plain:h100 (『日米会話手帳』)

 この例からわかるように、『正しい英語の知識』は日本語の英訳事例集といっていいし、伊佐のかなり年期の入った英語の実力をうかがうことができる。この出版社は発行者を金子貞俊とする日本橋区堀留の美和書房で、昭和二十二年二月に刊行されている。金子と美和書房はここで初めて目にするが、印刷は研究社印刷所とあることからすれば、金子は研究社の関係者だったとも考えらえる。

 それだけでなく、美和書房という社名も気にかかる。拙稿「真善美社と月曜書房」(『古本探究』所収)において、前者の「アプレゲール・クレアトリス」叢書の『不毛の墓場』の馬淵量司にふれ、彼が昭和二十六年にポルノグラフィの翻訳出版や『近代出版史探索』84の岡田甫の著書などを主とする美和書院を設立していることを既述しておいた。美和書房と一字しかちがわないことからすると、何らかのつながりを想定してしまう。また訳者として伊佐も加わっていたのではないかと思ってしまう。

 『ラスプーチン暗殺秘録』のほうは昭和五年に芝区桜田鍛治町の大衆公論社から出され、発行者は森川善三郎となっている。こちらも双方とも未見だったが、奥付裏に既刊、近刊書七冊が掲載されているので、それらを挙げておく。富士辰馬訳『アメリカは如何に日本と戦ふか?』、向坂逸郎、鳥海篤助共訳『インテリゲンチア』、前田河広一郎『評論集「十年間」』、田中運蔵『赤い広場を横ぎる』、R・W・ローワン、早坂二郎訳『国際スパイ戦』、檜六郎『中・小商工農業者は没落か?更生か?』、猪俣津南雄『没落資本主義の「第三期」』である。原著者名がないのは記載されていないからだ。

f:id:OdaMitsuo:20210808163204g:plain(『インインテリゲンチア』)f:id:OdaMitsuo:20210808165840j:plain:h120(『赤い広場を横ぎる』)

 いずれこれらに言及する機会もあるだろうから、ここでは『ラスプーチン暗殺秘録』にしぼりたい。同書は旧公爵ユスポフ著で、ラスプーチンと同じく口絵写真にそのポートレートも見え、その「序」で、暗殺も含めた「ラスプーチンに関する思ひ出を、公にする」と述べている。伊佐も「訳者の言葉」として、ロシア帝政末期に「ロマノフ王家に現はれた妖僧ラスプーチンの存在ほど、怪奇にして、而も悲劇的なものはない」と記し、著者にも言及している。

f:id:OdaMitsuo:20210803102535j:plain:h130

 著者ユスポフ公は、この変慳極まりなき妖術師ラスプーチンの心臓に、拳銃を放つた最初の第一人者である。即ち、ラスプーチン暗殺事件の直接下手人たる点に於いて、その既述の正確を保証する。また、著者が、ロシア皇族中稀に見る才筆の士たる点に於いて、その文章の流麗、平明を裏書く。

 ユスポフはロシア皇帝の縁戚に連なる者として、ラスプーチンと接するうちに、「此の天才的悪漢の手から、露西亜の運命を救ひ出す為めには、極端なる手段に訴ふる必要がある」との結論に至る。自ら経験したラスプーチンの魔力とは降神を伴うような催眠術であり、皇帝一家に対しては病気を治癒する天賦の才だった。しかもそれはチベット伝来の霊薬とシベリアの森からもたらされた秘薬によるものだった。

 そしてユスポフは少数の同志と暗殺計画を実行することになる。それは毒殺を想定していたが、ラスプーチンに毒は効かず、銃殺することで計画は成就したかに見えたが、ラスプーチンは不死身の存在のようにして立ち上がってくるのだ。さらなる銃撃によってラスプーチンの死はようやく見届けられ、その死体は布に包まれ、ネヴァ河に投げこまれる。これらの暗殺のディテールは当事者ならではの緊迫感を保って報告され、このユスポフの一冊をベースにして、後年の様々なラスプーチン伝説や物語が編まれていったとわかる。

 『ラスプーチン暗殺秘録』を読みながら想起されたのは、『近代出版史探索Ⅳ』730のハルヴァ『シャマニズム』であった。この「シベリアの金枝篇」(田中克彦)はラスプーチンがシベリアを出自とするシャーマンだったのではないかとの思いを生じさせた。そしてラスプーチンそのものこそが、ヨーロッパ近代とロシア革命の狭間において出現した、前近代的異物、それもアルタイ諸民族のシャマニズムがもたらした「密教」的魔術師のような存在だったのではないだろうか。それゆえに暗殺による排除という運命をたどったとも考えられるのである。

シャマニズム―アルタイ系諸民族の世界像

 なお平成六年になって、『ラスプーチン暗殺秘録』 (青弓社)が出され、原書のフランス語版は一九二七年にパリのプロン書店から刊行されていることが判明した。伊佐訳は昭和五年=一九三〇年なので、こちらもフランス語版を原書とし、伊佐がフランス語にも通じ、『ジェルミナール』もフランス語から訳されていることの証明となろう。まさに伊佐と同じく、青弓社版にも訳者経歴の紹介がないのだが、この原はまだ未確認だけれど、友人の哲学者だと思われる。

ラスプーチン暗殺秘録

[関連リンク]
 過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら