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古本夜話1196 平田禿木、『英国近代傑作集』、ヘンリー・ジェイムズ『国際挿話』

       
 前回の『世界文学全集』2には、これも幸いなことに「世界文学月報」が残されていて、そこに平田禿木が「『デカメロン』に就て」という一文を寄せている。そこで禿木はチョーサーの『カンタベリイ物語』、『千一夜物語』と比較して、同じ短編集成であるけれど、ボッカチオの『デカメロン』はフィレンツエの町に大疫病が発生し、大量の病者と死者が発生するという陰惨な背景にもかかわらず、イタリア的な「明るい感じ」を覚えると書いている。それにボッカチオは「古往今来ストオリイテラア」で、それぞれの話が「東方の物語、古代欧州の物語、フランスの物語、イタリイ青年の出来事、逸話、醜聞沙汰といった、多種多様の出自を有つた題材をば、長短相錯綜して巧みにこれを排列していくその手際、鮮かなその手腕に至つては、真に驚嘆に価する」とのオマージュを捧げるのである。

f:id:OdaMitsuo:20210822101518j:plain (『世界文学全集』2)

 これは読み巧者の禿木ならではの『デカメロン』評と思われるが、「月報」ということもあってか、「平田禿木全著作目録」(『禿木選集』第三巻所収、南雲堂)には見えていない。ここで禿木を挙げたのは、前回『デカメロン』の内容にふれなかったこと、彼が森田草平の関係した国民文庫刊行会の中枢とでもいえる翻訳者であったことに言及したいからだ。

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 前回の「世界名作大観」だけでも、禿木の翻訳はディケンズ『デエヴィッド・カパフィルド』、ワイルド『ドリアン・グレエの画像』、ハーディ『テス』、コンランツド『チヤンス』、ラム『エリア随筆集』、『沙翁物語他』、メレデイス『我意の人』、サッカレ『虚栄の市』、『英国近代傑作集』と最も多く、全五十巻のうちの十七冊に及んでいる。

f:id:OdaMitsuo:20210823153446j:plain:h120(『デエヴィッド・カパフィルド』)f:id:OdaMitsuo:20210823153112j:plain f:id:OdaMitsuo:20210823094340j:plain(『英国近代傑作集』)

 「平田禿木略年譜」(同前)をたどってみると、明治四十三年にまだ玄黄堂を名乗っていた鶴田久作と知り合い、翌年に戸川秋骨、森鷗外、高橋五郎、馬場孤蝶、森田草平とともに、国民文庫刊行会の「泰西名著文庫」全二十冊、次の「泰西名著文庫」全二十四冊の企画、翻訳の仕事に携わるとある。それから明治四十五年から昭和四年にかけて、ほぼ毎年「国民文庫刊行会の訳業に従う」と記されているので、「泰西名著文庫」から始まって、その改訳総集編としての「世界名作大観」に至るまで、禿木は鶴田の国民文庫刊行会と併走してきたことになろう。

 この「泰西名著文庫」の『英国近代傑作集』上下は入手している。これはB6判の「世界名作大観」と異なり、菊判で、上巻はウォッツ=ダントン、戸川秋骨訳『エイルイン物語』で、すでに拙稿「鶴田久作と国民文庫刊行会」(『古本探究』所収)で言及し、「近代の珍書」として、『世界文芸大辞典』の解題を引き、その物語を紹介している。必要であれば、そちらを参照してほしい。しかしそれから十五年ほど過ぎているのだが、作者に関しても作品についても、新たな知識や情報が得られず、『エイルイン物語』は相変わらず異形の物語のままであり続けている。

f:id:OdaMitsuo:20210823095805j:plain:h115 (泰西名著文庫)

 その一方で、『英国近代傑作集』下巻は禿木訳のヘンリー・ジェイムズ、トマス・ハーディ、ジョージ・メレディスの中短編集である。ハーディはともかく、ジェイムズもメレディスも禿木が初めての翻訳者だったと見なしていいように思われる。だがここではジェイムズに限り、巻頭に収録された『国際挿話』を紹介してみたい。それに本探索との絡みからすれば、ジェイムズは一八七五年にパリに居を構え、フローベールやツルゲーネフたちとも交わっていたのである。

 禿木はその序に当たる「ヘンリイ・ジエムス」において、彼が七十二歳で、アメリカ生まれだが、イギリスを中心としてヨーロッパ各地で暮らしていることから、アメリカ人でもイギリス人でもない「一人の世界人(コズモポライト)だと述べている。そして、長編『鳩の翼』は難解で読了できなかったけれど、『国際挿話』は彼の世界的な冷静の眼で観察され、「余程の明晰なる頭脳」による「明るい色」を反映した作品だとして、次のように続けている。

 英米といふものが社交の場に互ひに持するその態度、また困惑、親愛、反抗のそれとなくこんがらかつた一種の思ひを以て、斯く相対する二つの面に於ける複雑委曲した表情が、如何にも微細に、皮肉にこゝにも描かれている。

 まさに穿った指摘で、後にいわれる「国際テーマ」(アメリカ対ヨーロッパ)を鮮やかに表出した作品であろう。『国際挿話』はイギリスの若い二人の貴族が夏のニューヨークにやってくる。そのラムベス卿とバアシイ・ボオモントは友人から紹介された親切なアメリカ人ウエストゲエトの事務所を訪ねる。彼は「素敵に別品の細君を有つてるんだ。馬鹿に客好きな親切な男で―もう何だつてしてくれるよ」という振れ込みだった。するとウエストゲエトはニューポートに別荘があるので、避暑を兼ねて船でお出かけ下さい。私の妻とその妹のオルデンがいて歓待してくれるでしょう。そしてたちまちのうちにウエストゲエトは二人の船室まで手配した。ニューポートではウエストゲエト夫人と妹が待ち構え、そこはアメリカ人の社交場でもあり、二人のイギリス人貴族もそこに加わることになった。これが前半で、後半はウエストゲエト夫人と妹がロンドンに向かい、二人と再会する。そこから何が起きるかは書かないでおこう。

 この『国際挿話』は四十年後の昭和三十一年に上田勤訳『国際エピソード』(岩波文庫)として刊行されている。なお『エイルイン物語』のほうは『エイルウィン:ルネサンス・オブ・ワンダー』として杉浦勉訳でkindle版が刊行に至っている。
 
国際エピソード (岩波文庫 赤 313-2) エイルウィン: ルネサンス・オブ・ワンダー

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