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古本夜話1207 本間久と『女優ナナ』

 最近になって、前回の永井荷風訳『女優ナナ』と異なる二冊の『女優ナナ』を入手している。一冊は『近代出版史探索Ⅵ』1179でリストアップしておいたように、大正時代に入っての最初の「ルーゴン=マッカール叢書」の翻訳で、本間久訳として、大正二年に東亜堂から刊行されている。これは二十年ほど前から探していたが、見つからず、このほどようやく入手した一冊である。

f:id:OdaMitsuo:20210906175904j:plain:h125(新声社版『女優ナナ』、永井荷風訳)

 東亜堂は同1190の水上齋訳『ボワ゛リー夫人』、同1197の金子健二訳『全訳カンタベリ物語』、『近代出版史探索Ⅱ』220の佐々木邦訳『全訳ドン・キホーテ』の版元で、その他にもやはり本間久訳『全訳アラビヤンナイト』を出している。だがこれも長きにわたって留意しているけれど、めぐり会えていない。けれどその経営者の伊東芳次郎に関しては拙稿「幸田露伴と『日本文芸叢書』」(『古本屋散策』所収)で、塩谷賛『幸田露伴』(中公文庫)を通じての若干のプロフィルを提出している。

f:id:OdaMitsuo:20210823113148p:plain:h120 (『全訳カンタベリ物語』)f:id:OdaMitsuo:20210907101952j:plain:h120

 念のために大正七年版『東京書籍商組合員図書総目録』を繰ってみると、露伴の『努力論』『立志立功』などを始めとする人生論や歴史書百点ほどが挙げられ、前掲の翻訳書は主流でないとわかる。それに『女優ナナ』は見当らない。だが塩谷の証言によれば、伊東の東亜堂は大正十年頃閉じられたとあるので、『同目録』に出版目録が掲載されたのも最後になってしまった。

 『女優ナナ』の巻末には七十近い「東亜堂出版図書特約売捌店」が見え、全国のみならず、京城や大連も含め、流通販売網が整備されていたと思われるだけに、どうして立ちゆかなくなったのかという疑念がつきまとう。しかも関東大震災前でもあり、それは『近代出版史探索Ⅵ』1198の廣文堂と共通する要因があるのかもしれない。ただ点数からしても、翻訳物に起因していないことは確かめられたので、少しばかり安堵する思いだ。同じく同書の巻末広告には新刊、近刊として、ツルゲーネフ、花園緑人訳『女優』やバルザック、吉田荻洲訳が掲げられていたからだ。

 さて前置きが長くなってしまったが、『女優ナナ』に戻らなければならない。函の有無は不明だが、本体の装幀と造本と口絵はナナにふさわしくない。本体には公園の風景が描かれ、淡い緑の芝生、銀色の池には紺の樹々が映り、その上に二羽の白鳥が戯れている。そして口絵はたおやかな舞台の光景のようで、優美な二人の女優の姿がある。「緒言」に「此書の口絵表紙はすべて中沢弘光画伯の手に成つたもの」と記されているように、彼はロマン派的な趣の画風を有し、時代の『新小説』の春陽堂の表紙を手がけ、多くの小説の装幀にも携わり、田山花袋と共著で『温泉周遊』(金星堂、大正十一年)も刊行しているらしいが、こちらは未見である。

f:id:OdaMitsuo:20210907095908j:plain:h126 f:id:OdaMitsuo:20210907095400j:plain:h126(東亜堂版『女優ナナ』、本間久訳)f:id:OdaMitsuo:20210907142436j:plain:h125(『温泉周遊』)

 訳者の本間は『日本近代文学大事典』に立項が見出せるで、それを引いてみる。

 本間久 ほんまひさし 生没年不明。小説家、批評家。明治四三年ごろ二六新報の記者をするなど、新聞、雑誌の記者をした。作品批判である馬場胡蝶らの序文、森鷗外のあとがきを付した長編小説『枯木』(明四三・一 良明堂)を処女出版。過渡期の諸問題に立向かう青年を性急かつ強引な筆致で描いたの。著書はほかに自己流の社会評論集『白眼』(明四五・七 良明堂)、シェンケーヴィッチ『死にゝ行く身』(明四五 東亜堂)、『女優ナナ』(大二・七 東亜堂)などの翻訳もある。文壇の枠からはみ出した人間であった。

 おそらくこの立項は長編小説『枯木』の「森鷗外のあとがき」に大きく起因し、成立したと目されるし、本間の小説家、批評家、翻訳者としての評価ゆえではないだろう。「文壇の枠からはみ出した人間」という漠然とした評にしても、何に基づいているのか、『枯木』や『白眼』を読む機会を得ていないので、判断を下せない。

 そこで『日本近代文学大事典』の『二六新報』の解題によって、明治四十三年前後の『二六新報』の動向を追ってみる。同誌は二六社より明治二十六年に大新聞として創刊された。創刊中心メンバーは秋山定輔、江木衷、柴四郎、土子金四郎、鈴木天眼たちで、文学者としては与謝野鉄幹、斎藤緑雨などが参加していた。明治三十年代には反藩閥、反財閥の論調をとり、社会正義感を発揮する新聞となった。しかし政府批判記事による発禁を通じて、四十一年には家庭面を充実させ、中産階級に向けての大衆紙となると同時に、多くの文学者が寄稿する「時代文芸」欄も設けられた。だが四十四年に秋山は引退し、秋山清が社長となる。

 この『二六新報』のラフスケッチに『日本近代文学大事典』の秋山定輔の立項を重ねれば、さらに多面的になるけれど、肝心の本間は不在であるので、このような『二六新報』との状況から、彼のポジションをうかがうしかないし、それが本間をして翻訳の道へと進ませた要因だったとも考えられる。そうしたニュアンスは『女優ナナ』の「緒言」にも表出しているように思える。

 此書の印刷全部校了の頃に至つて、急に書肆から註文が出た。警保局の関門通過が危いから三四ヶ所訂正しろと云ふのである。成程此頃は大分お役所の取締が厳しいやうだ。(中略)それを憚つての用心は至極尤もであるが、此ナナの抄訳は既に業に出来るだけ穏やかに書いた(後略)。

 まだ続いていくが繰り返しとなるので、ここで止める。この三〇〇ページの『女優ナナ』は荷風のものよりは長いにしても、ストーリーは原著の半分のところで終わっている。荷風の『女優ナナ』はナナの死と「行けよ、伯林、伯林、伯林!」というクロージングのところまでを収めている。本間は荷風と異なり、ヴィゼッテリイ以外の英訳によっていたのかもしれない。

 なお付記しておくと、この二冊の『女優ナナ』も発禁とされたようだ。


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