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古本夜話1206 新声社と永井荷風『女優ナナ』

 『近代出版史探索Ⅵ』に、ゾラの「ルーゴン=マッカール叢書」の出版、翻訳、訳者に関して、十編ほど収録しておいたが、その後さらに六冊入手したので、それらも付け加えておきたい。だがその前に永井荷風『女優ナナ』の出版をめぐる一編を書いておかなければならない。

 これまで明治三十六年新声社から刊行された荷風の『女優ナナ』にふれてこなかったのは抄訳だったからで、大正時代における英語からの重訳であっても、全訳の試みとは異なると認識していたことによっている。また佐藤義亮『出版おもい出話』(『新潮社四十年』所収)にも、明治三十六年出版の荷風の『夢の女』は挙げられているけれど、やはり同年の『女優ナナ』への言及がなかったことも作用している。

f:id:OdaMitsuo:20210512105601j:plain:h110(『新潮社四十年』)

 それに私としても、抄訳はともかく、『近代出版史探索Ⅵ』1178などで、大正十一年の宇高伸一訳『ナナ』が大ベストセラーとなり、新潮社が新社屋を建設し、それがナナ御殿とよばれたエピソードを記しておいたように、荷風の『女優ナナ』の出版がその伏線になったと思いこんでいた。荷風にしても続けて同1179の『獣人』の縮訳『恋と刃』をも刊行し、明治三十九年に新声社から三冊を上梓していたのである。

f:id:OdaMitsuo:20210723104645j:plain:h110(宇高伸一訳、『世界文芸全集』)f:id:OdaMitsuo:20210906150844j:plain:h110 (『 恋と刃』)

 しかしあらためて荷風のゾラ関係を一巻にまとめた『荷風全集』(第十八巻所収、岩波書店、昭和四十七年)を繰ってみると、荷風も『近代出版史探索Ⅵ』1189のシャトー・アンド・ウインダム社のヴィゼッテリイの英訳によっていたこと、及び『女優ナナ』や『恋と刃』は佐藤義亮の新声社からの出版ではないことが浮かび上がってくる。そこで『新潮社四十年』の「新潮社刊行図書年表」を開いてみると、確かに明治三十六年のところに『夢の女』は挙がっているけれど、それに伊藤銀月『東京対大阪』、青柳有美『八円旅行』と『雑誌旅之友』が続いているだけで、そこで新声社は終わり、明治三十七年からは新潮社となっている。

f:id:OdaMitsuo:20210906175904j:plain:h125(新声社版『女優ナナ』)

 そこで佐藤の『出版おもい出話』に「新声社の幕を閉ぢる」の章があったことを思いだし、再読してみた。そこで佐藤は語っていた。明治三十六年九月、出版者としての立場に重大な転換が起きた。文芸出版者として一所懸命働いてきたが、商売人手腕が不足し、経済の運用はなっておらず、毎晩約束手形の夢にうなされるばかりだ。それが一年ばかり続き、新規巻き直しを決意するに至った。

 ちょうどその時、新声社の同人の正岡芸陽がしばらくぶりで姿を見せ、「新声社を手離す気持ちはありませんか」といった。佐藤はただちにそれに応じた。「誰一人相談もせず、譲渡の条件も一切先方まかせ、たゞ『結構です。結構です。』と、猫の子一匹の受けわたしよりも手軽に終つた。/明治二十九年以来の、私の新声社は、かうして幕が閉されたのである。」

 この佐藤の述懐をふまえ、山田朝一『荷風書誌』(出版ニュース社)によって、『夢の女』『女優ナナ』『恋と刃』の書誌を確認してみる。『夢の女』は明治三十六年五月刊行だから、佐藤の新声社、『女優ナナ』は同年九月、『恋と刃』は同年十一月とあるので、佐藤が新声社を手離した後の出版と見なせよう。そして『荷風書誌』は『女優ナナ』の奥付裏面に、新声社は森山守次が引き継ぐ旨の広告文があると指摘している。だがここでは『新潮社四十年』よりも直截的な『新潮社七十年』を引いてみよう。

f:id:OdaMitsuo:20181215222327j:plain:h110  f:id:OdaMitsuo:20180806153457j:plain:h110 

 新声社を譲り受けたのは法学士森山吐虹であった。そのときまで『新声』は通巻九十一冊まで出していたが、三十六年八月号を最後として義亮の手から離れたのである。吐虹は九月号の『新声』に「・・・・・・佐藤橘香氏は都合により本社を小生に譲渡さるる事と成り、今後の新声社は全く同氏と関係を離れたるものと相成り申候て、新声社が各売捌店に有する債権其他の一部の権利及び雑誌『新声』も小生一箇の有と相成り申候」云々という社告を出している。第二期「新声」は正岡を主幹として新発足、ときどきは休刊しながら四十三年三月号までつづいた。

 この記述からうかがえるのは森山が吐虹という号を有していることからわかるように、出版と文学に野心をふくらませていた法学士だったのではという憶測である。そこにこれまた『新声』を乗っ取りたい欲望に駆られた正岡がいて、この二人がコラボして既刊在庫と著作権、各取次売掛金、『新声』の編集権をまさに「居抜き」のかたちで買収したことになろう。

 ただ『日本近代文学大事典』における『新声』の解題をたどっただけでも、十月号には同人田口掬丁、金子薫園、平福百穂の退社が告知されている。また明治三十七年の『新潮』創刊五月号社告に「芸陽正岡猶一 右者本社と一切関係無之候」とあるのを目にすると、その後に何らかの買収の不祥事や不都合が生じた結果のように思われてならない。

 それに著作権のほうだが、荷風の『夢の女』に関して、山田は「新声社が破産し、紙型が転々とした」として、実際にカラー書影を示し、明治四十年の精華堂版、同四十四年の岡本増進堂版、大正十五年の近代文芸社、橋本自由堂版を挙げている。『女優ナナ』は大正五年に『近代出版史探索Ⅵ』1163などの籾山書店が縮刷版として引き継ぎ、『恋と刃』は新声社版だけで終わったようだ。これが明治の荷風訳『女優ナナ』の出版状況ということになろう。

 f:id:OdaMitsuo:20210906144741j:plain:h120f:id:OdaMitsuo:20210906144511j:plain:h120(籾山書店版)


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