前回の最後のところでふれた春秋社の「世界家庭文学名著選」のラインナップを挙げてみる。このシリーズは「全訳」が売りのようで、大半のタイトルにそれが付されているが、ここでは省略する。
1 フアラア | 村山勇三訳 | 『三家庭』 |
2 マロック | 中村千代子訳 | 『ジョン・ハリファツクス』上下 |
3 オルコット | 内山賢次訳 | 『四少女』 |
4 ルツソオ | 平林初之輔、柳田泉訳 | 『エミール』上下 |
5 シエンキヰッチ | 木村毅訳 | 『何処へ行く』上下 |
6 本間久雄選 | 『家庭学校用 劇と対話』 | |
7 アミーチス | 石井眞峰訳 | 『クオレ(学童日記)』 |
8 中村吉蔵著 | 『旧・新聖書物語』 | |
9 キングスレー | 村上勇三訳 | 『ハイペシヤ』 |
10 シウエル、ウイダ | 加藤朝鳥訳 | 『黒い馬・フランダースの犬』 |
11 スチブンソン | 古舘清太郎訳 | 『宝島』 |
12 エクトル・マロー | 須藤鐘一訳 | 『家なき少女』 |
13 デューマ | 宮下茂訳 | 『黒いチュウリップ』 |
私の手元にあるのは1の『三家庭』の一冊だけで、このリストはその巻末広告から拾っている。大正十二年六月初版、同十四年二月四版、函入四六判上製、六三二ページ、定価は三円五十銭である。「世界家庭文学名著選」という総タイトル、「全訳」と高定価のアイテムは、拙稿「近代社と『世界童話大系』」(『古本探究』所収)を彷彿とさせる。これらも菊判と判型こそ異なるけれど、大正時代に刊行されていた。
しかしこの「世界家庭文学名著選」はこれらの作品の他にも出され続け、その普及版も刊行されたようだ。たまたま入手した春秋社のトルストイ『人生読本』(上巻、八住利雄訳、昭和三年)の巻末広告には先に見られなかったものも加わっていたのである。それを便宜的にナンバーも付し、続けて挙げてみる。
14 | 松原至大訳 | 『マザーグース子供の唄』 |
15 トウエン | 佐々木邦訳 | 『トム・ソウヤーの冒険』 |
16 フェヌロン | 木村幹訳 | 『テレマツク物語』 |
17 トウエン | 佐々木邦訳 | 『ハツクルベリーの冒険』 |
18 | 中村詳一訳 | 『シエクスピヤ物語』 |
19 ウエルス | 加藤朝鳥訳 | 『ジャンとピーター』上下 |
20 宇野浩二 | 『西遊記物語』 | |
21 アンスチー | 佐々木邦訳 | 『あべこべ物語』 |
22 バアリイ | 村上正雄訳 | 『ピーターパン』 |
23 ハリエット | 今井嘉雄訳 | 『アンクル・トムス・ケビン』 |
まだほかの作品もあるだろうし、こちらの「普及版」は定価一円となっていることからすれば、円本に位置づけられるだろう。そしてこの「普及版」はその後の『世界家庭文学全集』全三十九巻に組みこまれて行く。それはやはり同時代の平凡社の同タイトルの円本『世界家庭文学全集』と拮抗していたと考えられる。平凡社のほうは『近代出版史探索Ⅱ』240の『世界家庭文学大系』を引き継いだもので、明細は『日本児童文学大事典』に掲載されているけれど、春秋社版は見当らない。
(『世界家庭文学全集』平凡社)
しかしあらためてこの春秋社のリストを見てみると、原著者はひとまずおくとしても、訳者たちは春秋社と大正時代ならではの組み合わせのように思える。4の柳田泉、5の木村毅、11の古舘清太郎は春秋社の立ち上げと創業企画に関わった人たちに他ならない。彼らが壮大英文科出身であるように、4の平林初之輔、8の中村吉蔵、10の加藤朝鳥、12の須藤鐘一、14の松原至大、20の宇野浩二までを含めて同様で、春秋社、「世界家庭文学名著選」翻訳者、早大英文科人脈がコアを担って、この企画が成立したとわかる。
1と9の村上勇三は『日本近代文学大事典』の「索引」のところにかろうじて見つかり、大正八年に編集兼発行人を植村宗一(直木三十五)として、春秋社から創刊された文芸誌『主潮』にアンドレーエフ「大戦中の告白」の翻訳を寄せている。この事実からすれば、やはり早大英文科人脈に属していたと推測される。『日本近代文学大事典』には見出せないけれど、それは7の石井眞峰、13の宮下茂、22の村上正雄、23の今井嘉雄たちも、その中にいたか、もしくは近傍にあったと見なしていいだろう。18の中村詳一は『近代出版史探索Ⅵ』1139の斎藤秀三郎の正則英語学校出身で、『同Ⅵ』1199のリットン『ポンペイ最後の日』の訳者、津田塾出身の2の中村千代子はその夫人である。
ただ後に『シートン動物記』の翻訳で知られる3の内山賢次、『近代出版史探索Ⅵ』1184のゾラ『居酒屋』『夢』の訳者の木村幹が16を担い、『近代出版史探索Ⅱ』220などの佐々木邦が15の『トム・ソウヤーの冒険』など三作を翻訳していた事情はわからない。佐々木は昭和に入り、講談社の『少年倶楽部』連載の『苦心の学友』や、同じく『講談倶楽部』の『愚弟賢兄』によって、ユーモア小説の新たな領域を開いていく。だが、その前史には『近代出版史探索Ⅱ』220の『ドン・キホーテ』の翻訳に加えて、こうした「世界家庭文学名著選」における三作の翻訳が助走の役割を果たしていたように思われる。大正時代における翻訳史もまた充全に解明されていないといっていい。
その後『編年体大正文学全集』(ゆまに書房)第八巻の『文芸倶楽部』のアンケート調査「余の文章が初めて活字となりし時」に村山の一文が掲載されていることを知った。やはり『近代出版史探索』170でふれたように、未刊に終わった筑摩書房の『大正文学全集』のことが悔やまれる。
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