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古本夜話1267 天人社「世界犯罪叢書」と松谷与二郎『思想犯罪篇』

 前々回の天人社に関して、もう一編続けてみる。この版元に関しては拙稿「小田律と天人社」(『古本探究Ⅲ』所収)で、ヘミングウェイ、小田律訳『武器よ・さらば』の初訳などに言及し、不完全ながら『現代暴露文学選集』や「新芸術論システム」の内容を紹介しておいたけれど、その全貌は定かではなかった。しかし最近になって股旅堂の古書目録で、やはりシリーズの「世界犯罪叢書」の一冊である松谷与二郎の『思想犯罪篇』を入手し、これも昭和五年の『現代暴露文学選集』に続く同六年の企画だし、リンクしていると考えられる。何よりも『同選集』にちなんでか、『日本近代文学大事典』においても、「小説の仮定よりも、生々しい現実の魅力だ。エログロも、その極端(ウルトラ)は犯罪だ」という広告コピーも引かれているので、ここで書いておきたい。その前にこの「世界犯罪叢書」の明細を示しておく。

 (「新芸術論システム」) 

1 松谷与二郎 『思想犯罪篇』
2 江戸川乱歩 『変態殺人篇』
3 大佛二郎 『スパイ篇』
4 松本泰 『情痴殺人篇』
5 千葉亀雄 『復讐・陰謀篇』
6 小牧近江 『暗殺篇』
7 前田誠孝 『謎の殺人篇』
8 永松浅造 『性欲殺人篇』
9 松本泰 『欲の殺人篇』
10 大佛次郎 『大盗伝』

 

 ただしこのリストは1を入手したことによって、その巻末広告で判明したものであり、『全集叢書総覧新訂版』で確認してみると、このうちの五冊は刊行されたが、中絶してしまったようだ。そのうちの既刊は1、2、3、4、7の五冊だが、未見であり、3は『軍事探偵篇』とタイトルが代わっているようだ。それもあって、「世界犯罪叢書」は松谷の一冊だけに言及するにとどめる。

全集叢書総覧 (1983年)

 この『思想犯罪篇』はタイトルからもうかがわれるように、「難波大助大逆事件」「高松小作争議事件」「無政府主義爆弾事件」「日本共産党史」「幸徳秋水大逆事件」「大本教事件」などの、明治末から昭和初期にかけての思想にまつわる事件を個別に取り上げている。それらの事件の当事者たちの口絵写真は付されているのだが、「まえがき」「あとがき」もないので、読んでいくと、「私」が立ち会った事件に関するレポートであることが伝わってくる。

 そこで松谷を『近代日本社会運動史人物大事典』で引いてみると、立項されていたので、それを要約しておく。松谷は明治十三年金沢市生まれで、苦学して明治大学法科を卒業し、大正三年頃から社会運動の弁護士としての活動を始め、同十年に自由法曹団の創立に参加する。そして十二年の難波大助虎ノ門事件に花井卓蔵などとともに官選弁護人に選ばれ、翌年の香川県伏石の小作争議主任弁護士を務めている。また日本労農党などの幹部ともなり、昭和五年には衆議院議員に当選している。

近代日本社会運動史人物大事典

 これが『思想犯罪篇』上梓時の松谷のプロフィルということになり、かれは国会議員兼弁護士として、この一冊を刊行したといえる。しかし『同大事典』には著者や参考文献として挙げられていないことからすれば、この『思想犯罪篇』は代作に位置づけられているのかもしれない。

 それでも松谷が直接弁護士として裁判に立ち会った「難波大助大逆事件」や「高松小作争議事件」はリアルな記述に充ちているし、ここでは前者にふれてみよう。この事件は関東大震災後の大正十二年十二月に起きた虎ノ門における天皇への銃撃で、「全国民を震駭せしめたいわゆる山口藩士難波大助にかゝる一大不敬事件」だった。松谷は記している。「明治の幸徳秋水一味のそれに継ぐ重大事件で、直ちに特別事件として司直の手に委ねられ、私は花井卓蔵、今村力三郎、岩田重三氏とともに、この大逆犯人難波大助の官選弁護人を命じられたので、此の事件の経過を、親しく此の眼で視、此の耳で聴いた」と。

 そして松谷は事件の翌年、すなわち大正十三年における大助との最初の面会について語り出す。何と驚くことに初対面の弁護士に大助は、「松谷先生ですか」と呼びかけたのである。彼は以前から松谷を知り、その演説も聞いていたし、社会運動に理解を持つ弁護士を望んでいたのである。これが最初の会見で、続いて松谷は大助の家庭、犯罪の動機、刑死に至までの経路を詳説していく。それは『思想犯罪篇』の四分の一以上を占める一一五ページに及び、この「難波大助大逆事件」がこの一冊のコアに他ならなかったことが伝わってくる。「世界犯罪叢書」の企画そのものも、その最初の巻における「難波大助大逆事件」を目玉として成立したのではないだろうか。


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