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古本夜話1271 青野季吉『文学五十年』と葉山嘉樹のデビュー

 前回、葉山嘉樹の「淫売婦」などが『文芸戦線』に発表されたのは青野季吉を通じてだったことを既述しておいた。これには少しばかり補足も必要なので、もう一編書いてみる。

 まずは『文芸戦線』だが、これはその半分ほどが近代文学館により復刻されている。しかし入手しておらず、未見である。それでも『日本近代文学大事典』第五巻の「新聞・雑誌」には一ページ半に及ぶ長い解題も見えているし、詳細はそちらに当たってほしいので、葉山と青野の関係も絡めてその初期をトレースし、簡略に示す。

 『文芸戦線』は大正十三年六月に関東大震災による『種蒔く人』廃刊のあとを受け、後退しかけていたプロレタリア文学運動を再建する目的で創刊された。創刊メンバーは小牧近江、金子洋文、平林初之輔、青野季吉などの十三人で、発行編集人は中西伊之助、発行所は文芸戦線社だった。なお『種蒔く人』と小牧近江は『近代出版史探索Ⅱ』210、金子洋文は同205で既述している。

 その『文芸戦線』第五号に青野によって初めて葉山の「牢獄の半日」が掲載され、続いて「淫売婦」「セメント樽の中の手紙」、黒島伝治「銅貨二銭」、壺井繁治「頭の中の兵士」、里村欣三「苦力頭の表情」といった初期プロレタリア文学の佳作が発表された。その一方で、青野のほうはプロレタリア文学の指導的理論家として、指標的評論「調べた芸術」「自然生長と目的意識」を書き、後者において自然発生的な文学を踏まえながらも、プレタリア文学は目的意識をもつたマルクス主義的運動にすべきだと唱えたのである。この後、様々な動向と人脈が交錯し、昭和七年の終刊までに全九五冊が刊行されていくのだが、ここでは葉山と青野の関係に限定したいので、言及は差し控える。

 さて葉山は昭和五十年になって、筑摩書房から『葉山嘉樹全集』全六巻、及び未刊行の『葉山嘉樹日記』が出され、その全貌が明らかになっている。だが青野のほうは『青野季吉選集』(河出書房、昭和二十五年)などを上梓しているけれど、そうした全集の刊行に至っていない。ただ青野にしても、『日本近代文学大事典』での立項は葉山を上回る二ページ以上が割かれ、『同事典』編纂の昭和五十年前後における青野の位置づけがうかがわれよう。それは現在となってはもはや回復できないであろう戦前からのプロレタリア文学の指導的理論家としてのポジションが保証されていたことを意味していよう。

  

 私などにしても、青野のよき読者であったことはないけれど、それでも『近代出版史探索Ⅲ』540で、彼の訳になるロープシン『蒼ざめたる馬』を取り上げているので、その自伝『文学五十年』(筑摩書房、昭和三十二年)には目を通している。同書には葉山との関係も言及されていることもあり、それをたどってみる。青野は大正四年に早大英文科を出て読売新聞社の社会部記者となり、その間に第一次世界大戦、ロシア革命とシベリア出兵が起きていた。シベリア出兵に際し、読売新聞社は出兵論に早変わりしたので、青野たちはストライキを起こし、新聞社から放り出された。

 大正九年に市川正一、平林初之輔とともに国際通信社へ翻訳記者として入社し、その三人に加え、佐野文夫、市川の弟義雄と一緒に『無産階級』を創刊し、『新潮』の編集者で『近代出版史探索Ⅲ』541の水守亀之介の依頼で文芸評論を書く。青野にとって、自らいうように、「その十一年という年は、社会主義者として踏切った年であると同時に文芸批評家として押し出された年」に他ならなかったのである。

 ちょうどその年には『種蒔く人』の同人ともなり、階級文学論を書くようになる。そこには前田河広一郎もいて、青野は説明もなく唐突に、「無名時代の葉山嘉樹がいちばん会いたがっていたのは前田河であった」と記している。また市川義雄の勧めで日本共産党へ入党し、その機関誌『赤旗』(以後『階級戦』『マルクス主義』と改題)の編集に携わり、関東大震災に遭遇する中で、『種蒔く人』は休刊を余儀なくされ、「その『種蒔く人』が『文芸戦線』と改題して再刊されたのは、やつと翌十三年六月であった。」

 その「プロ文学の灯をまもるという意味」の再刊の辞は青野によるものであったが、資金難もあり、半年ほどで中絶し、その本格的復刊は十四年六月で、編集には山田清三郎が担うことになって。それぞれの証言は異なっているが、そうしたところに葉山の作品が持ちこまれたのであろう。青野のリアルな証言を引いてみる。

 薄いけい紙に毛筆のこまかい字でかき込んだ『海に生くる人々』の原稿が私に手渡されたのは、堺利彦からで、わたしは慣れない毛筆の字に悩みはしたが、それも深い感動の妨げにはならなかった。
 そこでわたしは堺利彦をうながし、やがて上京してきた葉山をつれて三人で改造社の山本実彦(明治一八~昭和二七)を訊ね、簡単に内容を説明して出版方を頼んだ。大震災直後のことで、バラックの中でゴム長をはいて忙しそうにしていた山本社長は堺さんやわたしの手前ひと通り耳をかしたりはしたが、余り気がなさそうであった。
 それが葉山が『淫売婦』(一四年)で一躍新進作家として大きく認められると、たちまち山本社長の使がきて陽の目をみることに至ったのである。その『淫売婦』につづいて、『セメント樽の中の手紙』(一五年)などをかいて作家としての地位を確立したのだが、当の葉山は最初は意外な成功にあっ気にとられたり、世評に感激してとつぜんヒステリックに泣き出したりしたものである。

 青野はこの回想を、葉山の敗戦直後の満州からの引き揚げ列車の中での死を念頭に置きながら書いている。葉山のデビューにまつわる証言は様々なヴァリエーションがあるけれど、この青野のものが最もリアルだし、信憑性が高いと思われる。なお『淫売婦』は春陽堂からの刊行で、こちらはその経緯が不明である。また先述の『葉山嘉樹日記』(筑摩書房、昭和四十六年)は青野の書架に保管されていたもののようだ。


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