出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1270 葉山嘉樹『海に生くる人々』

 本探索1255の小林多喜二の『蟹工船』の成立にあたって、葉山嘉樹の『海に生くる人々』が大きな影響を与えたことは近代文学史においてよく知られていよう。この日本プロレタリア文学の記念碑とされる『海に生くる人々』は大正十五年に改造社から刊行され、例によって近代文学館による複刻が手元にある。

(改造社版) (複刻)

 この四六判並製のアンカットフランス装、三〇九ページの小説は汽船万寿丸が三千トンの石炭を詰めこみ、暴風雪の中を室蘭港から横浜へ向けて乗り出した場面を始まりとしている。冬期における北海路の天候はいつも険悪で、船にしても船員にしても、太平洋の怒涛の中へと繰り出していくようだった。それは次のように描かれている。

 万寿丸甲板部の水夫達は、デッキに打ち上げる、ダイナマイトのやうな威力を持つた波浪の飛沫と戦つて、甲板を洗つてゐた。ホースの尖端からは沸騰点に近い熱湯が迸り出たが、それがデッキを五尺流れるうちには凍るのであつた。五人の水夫は熱湯の凍らぬ中に、その渾身の精力を集めて、石炭塊を掃きやつた。
 万寿丸は右手に北海道の山や、高原を眺めて走つた。雪は船と陸とをヴェールで以て遮つた。悲壮な北海道の吹雪は、マストに悲痛な叫びを上げさせた。

 こうした海と船の描写を読みながら、葉山がメルヴィルの『白鯨』を読んでいたのではないかと考えたのだが、『近代出版史探索Ⅳ』789などの阿部知二訳によって、『同』790の河出書房『新世界文学全集』に『白鯨』が翻訳されるのは昭和十六年なので、メルヴィルの他の作品はともかく、『白鯨』は読んでいなかったと見るしかない。後に「文学的自伝」(『葉山嘉樹全集』第五巻所収、筑摩書房)などで知ったところによると、前田晁訳『ゴーリキー短篇集』が年少の葉山のバイブルで、それを読みながら、「ボルガの河船の、ボーイになって苦労がしてみたい、とか、税関の眼をかすめて、夜サンパンを漕いで見たい」という衝動にかられていたようだ。ただこの短篇集は出版社などが確認できていない。

 葉山の「年譜」(同前)によれば、それに端を発し、大正元年に水夫見習いとしてカルカッタ船路の貨物船に乗ったのが始まりで、それから室浜の石炭船に月給六円の三等セーラーとして雇われた。ところが船長がとんでもなく権柄づくで、労働は苦痛を極めたので、ストライキを行ない、勝利したけれど、次の航海で左足を負傷し、職務怠慢の名目で「合意下船」となったのである。そして大正六年頃から『海に生くる人々』を書き始めた。同八年には労働組合の組織に専念し、神戸の三菱川崎造船所、横浜ドッグ争議などを応援し、愛知時計電機争議を起こし、大がかりなデモを企てたりしたが、十二年には治安警察法容疑で、名古屋刑務所の未決に入れられ、そこで筆墨紙を許され、未定稿だった『海に生くる人々』を完成するとともに、検閲を受けながら「淫売婦」を書き上げた後、巣鴨刑務所へ移されたのである。

 葉山は出所してから木曽川ダムや発電所工事に携わっていたが、友人を通して『海に生くる人々』や「淫売婦」の短編が『近代出版史探索Ⅲ』540の青野季吉の手に預けられ、『文芸戦線』に発表された。とりわけ「淫売婦」「セメント樽の手紙」は好評で、葉山は有力新人として既成文壇からも認められ、『文芸戦線』同人として推薦された。その一方で、これも本探索1217の堺利彦が改造社に『海に生くる人々』を紹介したことによって出版され、葉山はマドロスや土方を経て、大正十五年に上京し、プロレタリア文学者へと歩んでいったことになる。

 この「年譜」は『葉山嘉樹全集』第五巻収録だが、実は前々回ふれた『新興文学集』のために書かれたものである。この巻には前田河広一郎の「三等船客」や「マドロスの群」の収録も見えているように、これらの作品も葉山の『海に生くる人々』への影響とコレスポンダンスを物語っているのではないだろうか。その「総序」では前田河の特色として、「大がかりな題材を把握し易々とこなしてゆくところ、太き線、強く迫力、広汎な視野」が挙げられ、一方で『海に生くる人々』によって一躍プロレタリア文壇の寵児となった葉山は、特殊な経歴から来る特殊な題材を把握し、プロレタリアの情熱を以て歌ふが如く創作する『労働の詩人』だ」とされている。

 まさに二人のこの通底性こそが、既成文壇に対し、プロレタリア文学の「社会的にも文壇的にも輝やかしき地歩を獲得するに至つた」「諸傾向の最尖端を代表する」ことになったように思われる。彼らは『文芸戦線』によって、多くの作品を発表していくわけだが、それらのトータルな集積として『文芸戦線作家集』(全四巻、『日本プロレタリア文学集』10~13、新日本出版社)も編まれているので、それらも機会を見つけて繰ってみることにしよう。


odamitsuo.hatenablog.com


[関連リンク]
 過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら