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古本夜話1275 『我等』と大山郁夫

 前回、大正時代における雑誌の『社会思想』『我等』『批判』という系譜にふれた。このうちの『我等』は『日本近代文学大事典』第五巻に一ページ近い解題があるので、要約してみる。

(『我等』創刊号)

 総合雑誌『我等』は大正八年に創刊され、昭和五年は『社会思想』と合併し、『批判』と改題され、九年まで全一七九冊が刊行された。編集人は大正十三年五月号までが大山郁夫、昭和九年『批判』終刊号までが長谷川万次郎(如是閑)である。大正前期に『中央公論』と並んで大正デモクラシーを推進した『大阪朝日新聞』は政府と右翼の攻撃や圧迫を受け、村山龍平社長が辞任し、ともに責任を取るかたちで幹部の鳥居素川たちが退社した。そのうちの長谷川、大山、井口孝義が朝日新聞時代に果たせなかった言論の実践をめざして発刊された。

 『我等』は大山や長谷川をイデオローグとし、人道主義思想をベースにして、対内的には国民、民衆の生活、文化を守る国家であるべきを主張し、対外的は国際協調主義の側に立ち、軍国主義や帝国主義に反対し、言論、思想の自由、普通選挙の実施を要求するなど、社会主義やボルシェヴィズムには反対という限界はあったものの、この時期に積極的進歩的役割を果たした雑誌に位置づけられる。

 執筆陣は先の二人の他に、朝日新聞関係者の櫛田民蔵、河上肇、吉野作造、東京帝大経済学部の高野岩三郎研究室の大内兵衛、矢内原忠雄、森戸辰男、初期新人会会員で『社会思想』によっていた嘉治隆一、三輪寿壮などの三グループから形成されていた。それぞれが大山や長谷川の編集に寄り添って多彩な論陣をはり、大山時代には文化主義から多くの創作類も掲載された。また一方で大山も長谷川も社会主義に近づき、プロレタリア・デモクラシーの傾向が強まり、マルクスやエンゲルスの翻訳も特色となり、古い同人や支援者が遠のき、『批判』へと改題の頃から勢いを失ったとされる。

 さてここで『我等』の大山と長谷川の二人のイデオローグの前者にも少しばかり言及しておくべきだろう。同じく『日本近代文学大事典』の立項を抽出すれば、大山は早大政治経済科卒業後、同大学講師となり、米欧に留学して近代政治学を学び、大正三年に帰国して早大教授となる。大正デモクラシーのトレンドの中で進歩的デモクラシーの評論を発表し、早大騒動の渦中にあって大学を辞し、大阪朝日新聞社に入り、論説記者となり、シベリア出兵と米騒動の記事の責任をとり、退社する。そして『我等』を創刊し、昭和二年は社会運動の実践として労働農民党中央委員となり、「輝ける我等の委員長」と称され、無産政治運動の先頭に立つ。だが七年はアメリカに亡命、戦時中はアメリカで生活する。まさに経歴といい、そのポジションやアメリカ亡命といい、大山は当時の知識人のスターだったと見なしていいだろう。

 そうした大山に大阪朝日新聞社から『我等』まで同伴した長谷川に関しては、大山と異なり、『ある心の自叙伝』(筑摩叢書)も残されているので、そちらに譲ることにしよう。また何よりも『我等』創刊紀元節号が手元にあるので、それを見てみる。その表紙にはコンテンツを示す「政治・社会・教育・文芸の批判」というサブタイトルもある。これは例によって近代文学館の「複刻 日本の雑誌」(講談社)の一冊で、確かに編集兼発行兼印刷人は大山郁夫、発行所は本郷区東片町の我等社とある。

 【複刻日本の雑誌】E 創刊号 我等 1982年 講談社 [雑誌] (複刻版)

 「創刊の辞」は憲法発布以来、満三十年を迎える紀元節を記念し、祝福すべきものだと始まり、次のように続いている。

 併しながら我等は、この大いなる欣びが、同様に大いなる責任に依つて裏づけられてあることを忘れはしない。殊更、大戦乱の終熄に際して、我等の祖国が世界諸国家の集団の中に動かすべからざる地位を占め得たと同時に、曾て我等の父祖が『知識を求め』たことの当然の帰結として、今や我等が人類の文化に寄与することに依つて世界に酬ゐなければならない義務を意識して居る秋に当り、我等は我等の使命の余りに大いなるに比して、我等の実力の余りに小さきを痛感せざるを得ないとは事実である。(後略)

 それでも「新しき時代の脈搏」と「新しい機運の囁き」は「我等の血管」や「我等の鼓膜」にも感じられ、響いてくるし、「希望の光は輝く。我等は今何をなすべきかを知つて居る」のである。

 それらを浮かび上がらせているのであろう表紙掲載の著者と論考タイトルを示せば、次のようになる。長谷川如是閑「『大阪朝日』から『我等』へ」、三宅雪嶺「憲政三十年を迎へて」、吉野作造「我憲政の回顧と前望」、福田徳三「世界の平和望み遠し」、今井嘉幸「普通選挙と反対思想」、大山郁夫「米国代表的公民ローズヴエルト」であり、これらが『我等』の『大阪朝日』と異なるジャーナリズム言説ということになろう。ただ当時の読者ではないので、『我等』が「新しき世界の新しき思想・新しき要求」に応えた「質を重んずる雑誌」として迎えられたかどうかの判断は容易ではない。それはこのようなクォリティ雑誌と時代特有のアポリアであるのかもしれない。


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