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古本夜話1322 満州と和田伝『大日向村』

 望月百合子『大陸に生きる』を読んでいて、舞台は満州でありながらも、日本の昭和十年代を彷彿とさせたのは、『近代出版史探索Ⅲ』530の小川正子『小島の春』『同Ⅴ』812の白水社の『キュリー夫人伝』 が取り上げられていることである。また周作人との対話の収録も、彼女がエロシェンコ人脈に連なっていたことを想起させる。それらに加えて、望月の著書がやはり『同Ⅴ』904の同時代の「開拓文学」の体現に他ならない朝日新聞社の「開拓文学叢書」と連動しているのは明らかだ。

文化人の見た近代アジア (6) 復刻 大陸に生きる (ゆまに書房復刻)   (白水社新装版)

 それは望月が最初の章「東満散策記」において、昭和十四年に大日向村を訪れ、この村の名士ともいえる九十歳になるお婆さんにも会っていることにも明らかだ。この人物は和田伝が取材の際に会ったお婆さんで、和田の大日向村が「すつかり観光地みたいになつてしまつて・・・・・・」という言も引かれているし、続けてそこには大日向村の道を背景にして、ひとりの村の娘と望月との一ページの並立写真もある。その大日向村は翌年の章の「新しき行進譜」でも再訪され、その村が和田の言を肯う「観光地」にされた現実の一端を伝えていよう。和田の農民文学は『近代出版史探索』184、185などでも取り上げている。

 なぜそのような大日向村の「観光地」化が生じたかというと、それは和田伝の『大日向村』がもたらしたプロパガンダを伴う開拓文学の影響と見なせよう。和田の作品は先述の朝日新聞社の「開拓文学叢書」の一冊として、昭和十四年に刊行されている。だがこれは福田清人『日輪兵舎』と異なり、入手できていないので、テキストは『和田伝全集』(第四巻所収、家の光協会、昭和五十三年)によっている。まずはこの小説のストーリーを紹介してみる。

   

 長野県南佐久郡大日向村は千曲川の上支流に位置する峡間の底の八つのむらからなり、夜が明けるのは遅く、日没は早く、大日向とは名ばかりの日陰の村で、昔から俗に半日村とさえ呼ばれていた。農家戸数三百三十六戸に対し、一戸あたりの耕筰面積は田畑合わせて七反九畝でしかなく、東西の山々の炭焼きを兼ねた生活で、しかも寺社有、国有林を除く林野面積のうちの四百町歩は一人の豪家の所有であった。それでも三千六百町歩の村有林があり、古来からその伐採は年々百町歩から百二十町歩で、二十五年で一巡りするという輪伐法により、年々十万俵の炭が焼かれ、耕作は狭くとも村民は山に入り、炭を焼いていれば、生活に困ることはなかった。

 ところが昭和五、六年のすさまじい農村恐慌で一俵一円四十銭の木炭は四十銭、一貫目十二、三円の繭は二円を割ってしまったのである。そのためにこれまでの輪伐法は維持できず、昭和九年までには村有林だけでなく、私有林も過伐され、山は次々に裸にされてしまった。その結果、大日向村の歳入の三分の一にあたる村有林の払い下げ代金も入らず、村税怠納額は一万円を超え、窮地に陥っていた。

 そこで村長は、村の素封家の長男で、早稲田大学政治科を出て、そのまま日清生命に入り、東京で暮らしていた浅川武麿に新たに村長を依頼することになった。それは村長一人の判断ではなく、役場、産業組合、農会、学校の代表者たちも同様で、彼らの上京しての浅川の寓居での坐り込みによって実現するに至る。

 しかし武麿にとって、故郷の家は没落し、希望もない故郷でしかなかった。それならば、どうして尊重を引き受けたのか、それは次のように説明される。

 彼は村行政に就いてべつにはっきりした知識も何も持っていなかった。従って方角はべつに何も立っていなかった。自信があるというのでもなかった。しかし(中略)ふるさとはしだいに山の彼方のものとは考えられなくなったのである。ふしぎと情熱が沸いてくるのをおぼえ、日毎にそれが強力に彼を捉えて放さなくなった。長年の都会生活でかつておぼえたことのない強い情熱であった。忘れていた故郷の山のけわしさと切りむすんでもたじろがぬそれは強靭な情熱となって盛り上がってくるからふしぎであった。「村」という言葉が、かつておぼえたためしのない響きで心に切り込んでくるのであった。そして、その切り込みは深く、痛いほどに刃のあとを残して消えるということがなかった。

 満州事変以後の昭和十年代の出郷者の「村」への回帰がここに語られていることになろう。かつて野島秀勝の『「日本回帰」のドン・キホーテたち』(冬樹社)を読んだことを思い出す。しかし武麿にしてみれば、具体的に大日向村再建のヴジョンを提出しなければならない。それは大日向村の過剰農家の問題とつながり、満州への農業移民計画として展開結実していく。長野県は昭和七年からそれが始まり、十一年までに第五次移民団を送り出していた。彼の計画は「この大日向村を二つに分け、その一半をそのまま大陸に移し、もう一つの新しい大日向村を彼地に打ち建てよう」とする新しいものだった。

 それは武麿の「半ば夢みたいな」「まったく新しい形の一つの空想」だったが、多くの村民の賛同を得て、計画は進められていった。農林省経済更生特別助成村に選ばれ、負債の性器、必要な資金繰りの目途も立ち、先遣隊が満洲へと向かうことになった。村の神社で「暁天はるか輝けば/希望は燃えて緑なす/見よ大陸新平野/拓く吾等に光あり/おお満州「大日向村」という満州大日向村建設の歌が高らかに唄われ、送り出されていったのである。そして昭和十三年には、入植地は吉林省舒蘭(ジャラン)県四家房(スージャフワン)と決定し、その新地面積は既墾地二六〇〇町歩を始めとする広大なものだった。

 和田伝は昭和十三年十月にこの大日向村を訪ね取材し、『大日向村』を上梓する。十五年には豊田四郎による映画化、前進座による加藤大介などの舞台公演も重なり、それが大日向村の「観光地」化を促進していったのであろう。

 そのために『大陸に生きる』にあっても、望月百合子による二度の大日向村訪問もなされたと考えられる。


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