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古本夜話1335 政教社『日本及日本人』

 前回の満川亀太郎『三国干渉以後』において、大正三年に彼は『大日本』の編集者となり、その六年近くに及ぶ雑誌記者生活の中で、「日本国家改造と亜細亜復興問題」を生涯の事業と決意したと述べている。

三国干渉以後 (論創叢書) (論創社版)

 この『大日本』の立項は他に見出せないで、満川の記述によってラフスケッチしてみる。月刊雑誌『大日本』は民間の志士による大日本国防義会の創立を背景とし、『二六新報』記者で、民間海運通の第一人者である川島清治郎によって創刊され、満川もその同人の一人として編集に参与した。『大日本』は当時唯一の高級政治雑誌『太陽』を範とし、四六倍判二百六十頁が原則で、三色版口絵写真と地図の添付を特色とし、内容は陸海軍中心の国防評論や国際政局に関する原稿が主であった。創刊当時は経済的にも恵まれ、発行部数も一万二千部に達したが、営業方面にはほとんど無知だったことから、翌年には行き詰まり、社友組織としてあらため、川島と満川の二人だけが残って『大日本』の発行を続けたとされる。

 満川は『大日本』の創刊も第一次世界大戦を機とするもので、それ以後『二十世紀』『東方時論』『中外』『改造』『解放』『公論』があったが、現在も続いているのは『改造』だけだと述べている。まさに大正時代は本探索1331の婦人誌、女性誌のみならず、新しい雑誌の到来を迎えていた。『近代思想』『郷土研究』『我等』『新青年』『現代』『文藝春秋』『キング』もそうであり、本探索でも繰り返し指摘してきたが、明治四十一年に実業之日本社の『婦人世界』が返品委託制を採用するに至った。それとパラレルに明治以後の人口増や全国鉄道網の普及も相俟って、書店がそれまでの三千店から昭和初期には一万店に及ぶという販売インフラの拡大をも伴うものであった。

(『婦人世界』)

 だが満川をして、『日本及日本人』や国家改造、亜細亜復興問題へと向かわせたのはそれぞれの大正の新しい雑誌というよりも、中学生時代に読んだ明治時代創刊の雑誌であり、彼は次のように述べている。

 私は雑誌『大日本』を読む事を覚えた。羯南先生病みて経営を日銀文書局長たりし伊藤欽亮氏の手に譲つてから、社中同人との間に衝突が絶へなかつた。遂に三宅雪嶺博士以下二十余名の同人が日本新聞社を退いて雑誌『日本人』に立て籠り、『日本及日本人』と改題したのであつた。私は或る号に孫文の事蹟のかいてあるのを感読した。(中略)左様だ、私は一日も早く東京に行つて、これら支那革命党の諸士とも交つて見たいと考へた。

 これには若干の説明が必要あるので、『日本近代文学大事典』第五巻「新聞・雑誌」の一ページ半に及ぶ立項を参照しながら補足してみる。『日本及日本人』は『日本人』として明治二十一年に政教社から三宅雪嶺、志賀重昂を中心として創刊された。「当代の日本は創業の日本なり」と謳われ、当時の国際情勢野中での対外強硬と観念的な国民平等の主張を強くして始まった。それもあって二十四年までに四回も発行禁止となり、第一次は終わる。だがやはり三宅、志賀を中心として二十六年からの第二次、二十八年からの第三次が三十九年の四四九号まで続いていくのだが、四十年の四五〇号から『日本及日本人』と改題された。それは陸羯南が『日本』を伊藤に譲るに際して、政教社の方針を変更しないことが条件だったにもかかわらず、それが無視されたので、旧社員は『日本人』によることになり、『日本及日本人』とタイトルが変えられたのである。

(『日本人』創刊号)

 その『日本及日本人』の大正二年四月の六〇四号が手元にある。浜松の典昭堂で見つけた一冊で、菊倍判本文一四八ページであり、翌年の創刊号『大日本』はその倍の厚さだとわかる。表紙には三宅雪嶺主宰と記され、今月の題言「春風の心と秋水の脳」に続いて、この号のトップ記事「多くの重大問題を如何にする」「事業職業営業の区別」が並んでいる。そして中央に『日本及日本人』のタイトルが縦に置かれ、次の四本の署名記事があり、これらがこの号の目玉だと思われるので、それらを挙げてみる。

 (『日本及日本人』明治44年3月号)

 鷺城学人「誤られたる大隈伯」、中野正剛「憲政擁護根本論」、三井甲之「森博士のフアウスト訳」、管國観「新聞及び新聞記者」で、最後の「新聞及び新聞記者」は二回目の連載らしく、理想の新聞編輯局やベスト専門記者人選を行なっていて、明治と異なる大正のジャーナリズムの台頭をうかがわせているようだ。これは未見だが、『大日本』創刊の範として、おそらく満川亀太郎もこの号を読んでいたにちがいない。


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