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古本夜話1371 陸軍美術協会出版部『宮本三郎南方従軍画集』

 平凡社『名作挿絵全集』第六巻の「昭和戦前・現代小説篇」を繰っていると、前々回に挙げた獅子文六『胡椒息子』の挿絵を描いている宮本三郎も「挿絵傑作選」のメンバーに含まれて、そこには次のようなポルトレが提出されていた。

名作挿絵全集〈第6巻〉昭和戦前・現代小説篇 (1980年)   

 石川県生まれ。川端画学校洋画部で藤島武二に学び、のち安井曾太郎に師事。昭和二十二年、田村孝之介らとともに二紀会を設立。卓抜したデッサン力をもとに、戦争記録画、人物画にすぐれ、挿絵、装幀の分野でも早くから活躍した。代表作に獅子文六「胡椒息子」「太陽先生」「大番」、三角寛の山窩小説など。

 実際に『胡椒息子』『大番』の他に、片岡鉄平「向日葵の蔭にて」(『婦人倶楽部』)、西條八十「モダン東京・夜景アルバム」(『主婦之友』)などの挿絵も掲載されていたのである。それらは予想外ではないのだが、『名作挿絵全集』第五巻の「昭和戦前・現代小説篇」のほうに、加太こうじの「黄金時代の挿絵画家」が寄せられ、次のような言及があったことにはいささか驚かされた。加太によれば、彼は昭和七年に『黄金バット』などの紙芝居の作者兼画家となり、時代小説の挿絵も描こうと思い、風俗考証なども勉強した。そしてやはり『名作挿絵全集』第六巻の「挿絵傑作選」に挙げられている寺本忠雄の門下に入り、時代小説挿絵の道へと踏みこんだが、その際の目標は岩田専太郎ではなく、宮本三郎であった。

  名作挿絵全集〈第5巻〉昭和戦前・時代小説篇 (1980年)

 また挿絵画家という区分けが成立したのは昭和に入ってからのことで、昭和元年に岩田専太郎が吉川英治『鳴門秘帖』の大阪毎日新聞連載に挿絵を描き、最初の挿絵画家となったと加太は指摘している。それから雑誌の隆盛によって挿絵市場が拡大し、そこに登場したのが宮本で、「挿絵で資金を得て大成した手本のような存在だった。宮本ははじめは漫画を描いていたが、『オール読物』が月刊になって三角寛が山窩小説を書くと、ペンネームでその挿絵を描いた」。

 それは「リアルな動きと迫力と独特のエロチシズム」が魅力的で、それ以後本名で挿絵を描き、資金を得て外遊し、帰国後二科展に「観覧席」という大作を出品して有名になった。つまり挿絵画家の目標として選ばれたのが岩田ではなく、宮本であったのは、挿絵画家たちの「本画」=展覧会絵画に対するコンプレックスに起因していたのである。それらはともかく『近代出版史探索Ⅴ』979で三角寛のサンカ小説に言及しているが、挿絵画家としての宮本が寄り添っていたことは意外でもあった。

 (「観覧席」)

 実は数年前に『宮本三郎南方従軍画集』を入手している。A4版上製、原色版とオフセットカラー印刷と写真版からなる「画集」で、六〇ページ余「従軍断想」とあるスケッチとエッセイ部分は六八ページで構成されている。巻頭に「序」にあたる「宮本三郎小伝」を寄せているのは藤田嗣治で、宮本を「二科会の重鎮として追縦者門前に殺到し名声天下にあまねし」、支那事変、大東亜戦争が起きるにあたって、「戦争画を志し遂に山下パーシユバル(ママ)会見の名画を成す/帝国芸術院員の栄冠を獲得す」とある。

宮本三郎南方従軍画集 (1944年)   

 藤田がこの「小伝」を寄せているのは、宮本と「南方従軍」をともにしたからで、昭南で二人が一緒に写っている写真も収録されている。宮本や藤田だけでなく、昭和十年代には多くの画家たちが従軍し、「戦争画」だけでなく、様々な美術関連書が刊行されたと思われる。『近代出版史探索Ⅲ』357でも、川端康成『浅草紅団』や矢田挿雲『太閤記』の挿絵を描いた太田三郎の『瓜哇の古代芸術』を取り上げているが、想像する以上に多くが出版されたのではないだろうか。

 『宮本三郎南方従軍画集』は昭和十九年三月に陸軍美術協会出版部から刊行され、発行者は佳喜代志で、再版五千部とある。初版は宮本の終章「自画像」の日付から前年に出版され、おそらく初版は再版よりも多い一万部だったように推測できる。しかも売価は物品税も含めると九円八十銭で、とてつもなく高価だといっていい。それに、清水文吉『本は流れる』(日本エディタースクール出版部)に示された五円を超える書籍の日配仕入正味は七七掛、出し正味八四掛である。それだけでなく、昭和十九年には日配の統制下で書店数は一万二千店ほどになり、このような高価な美術書を流通販売する状況にはなかった。

  

 とすれば、この『宮本三郎南方従軍画集』はどのような目的で出版されていたのであろうか。それは「戦争画」としてよく知られ、藤田も挙げている「山下・バーシバル両司令官会見図」収録に求められるように思われる。その原色版が見開きページで巻頭に置かれ、目次の後に「大本営陸軍報道部検閲済」と記されていることからうかがわれるのは、この画集が大本営陸軍報道部の助成金、あるいは買い上げ条件のもとで出版されたことである。つまり出版社には多大な利益を約束された一冊だったことに他ならない。戦時下の高価な美術書もリスクもなく、利益を上げることが可能な出版でもあった。

 しかも宮本の「自序」によれば、「私の最初の画集」ということになり、それはスケッチラス雑文集の色彩も強い。編輯は津田晴一郎に一任したとのべている。「二科の重鎮」とされても、それは挿絵画家という出自もあり、まだ自らの画集を見ていなかったことを意味していよう。それゆえに宮本の思惑、所謂「徴用作家」というポジション、それにここで初めて目にする陸軍美術協会出版部、発行者の佳喜代志、編輯者の津田晴一郎の事情も様々に絡んで、ここに成立した一冊のようにも思われる。

 なお宮本の装幀、挿絵による獅子文六『胡椒息子』の書影は、八木昇『大衆文芸図誌』に見ることができる。

  


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