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古本夜話1372 『石井鶴三挿絵集』と中里介山

 挿絵に関連して、ここでもう一編書いておきたい。それは浜松の典昭堂で、ずっと探していた『石井鶴三挿絵集』を入手したからである。正確にいえば、同書は『石井鶴三挿絵集』第一巻だが、近代挿絵史上の一大事件といっていい著作権問題を引き受けるかたちで出版されたこともあり、後が続かず、第一集だけで終わってしまったはずだ。それは中里介山の挿絵の著作権をめぐる内紛であった。

 
 まずはその前史としての介山の『大菩薩峠』連載と出版事情をふまえておかねばならない。拙稿「同じく出版者としての中里介山」(『古本探究Ⅱ』所収)でトレースしておいたように、『大菩薩峠』は大正二年から十年まで『都新聞』に連載され、挿絵は井川洗厓によるものだった。この『都新聞』連載版は平成二十六年になって、井川の挿絵も含め、論創社から完全復元版の全九巻が刊行されるに及んで、『大菩薩峠』の初源の姿が明らかになったのである。

古本探究 2  

 その連載に併走するように、大正七年に介山は新刊古本の販売を兼ねる玉流堂書店を開き、自らの活字道楽、及び『平民新聞』の寄稿者だったこともあり、『大菩薩峠』の出版を試みていく。その取次は至誠堂だったので、読者層も拡がり、売れ行きは好調であったと伝えられている。取次事情に関してはこれも拙稿「破綻した取次至誠堂」(同前)を参照されたい。この玉流堂版に目を付けたのは『近代出版史探索』182の読み巧者の木村毅で、大正十年に春秋社から刊行され始め、関東大震災でも紙型が消失を免れたので、注文が殺到してロングセラーとなっていった。

 そして大正十四年から『大菩薩峠』連載は、これも本探索1330の『大阪毎日新聞』と『東京日日新聞』へと移され、挿絵は石井鶴三が担うことになる。彼は石井柏亭を長兄とし、東京美術学校彫刻科出身で、大正十年の上司小剣『東京』の『東京日日新聞』連載により、挿絵に新生面を開いたとされる。

 その一方で介山は隣人之友社を設立し、リトルマガジン『隣人之友』を創刊し、春秋社の『大菩薩峠』は昭和円本時代を迎え、菊半截判の普及版円本として刊行されていく。ところが、その普及版は昭和七年の第十一冊目で、介山と春秋社の神田豊穂の共同出資による大菩薩峠刊行会へと変わり、『大菩薩峠』連載も『隣人之友』へと移される。さらに第十三冊目になると、発行所は隣人之友社となり、神田との絶縁が宣言される。そのために、第十四冊目の発行者は介山、発行所は隣人之友社となり、「中里介山著作物は、すべて、隣人之友社に於て統一発行発売仕り居候」という事態を迎えている。

   

 こうした複雑な『大菩薩峠』をめぐる出版事情を背景として、昭和九年に光大社から『石井鶴三挿絵集』が刊行されたのである。横長の函入本で、上製四六二ページ、用紙はコットン紙使用もあって、厚さは五センチにも及ぶ。『大菩薩峠』の大正十四年から昭和三年までの挿絵を一枚ずつ一ページに掲載し、それにナンバーを付し、「参籠堂に女来る」といった画題が加えられ、石井オリジナルの『大菩薩峠』の長編絵物語の印象が強い。また論創社版『大菩薩峠』で復元された『都新聞』の井川洗厓の挿絵とはまったく異なる物語のイメージを喚起させている。

大菩薩峠 都新聞版〈第1巻〉 (論創社版)

 この出版をめぐる介山とのトラブルは予測されていたようで、そこには大阪毎日新聞社の新妻莞による「序に代へて」、木村荘八の「石井鶴三の挿絵」、石井の「自序」、光大社の中島謙吉の「本挿絵集の出版に際して」が用意周到に配置されている。もちろんそれらは『石井鶴三挿絵集』における挿絵のオリジナリティとその意味での正当性を訴求するもので、新妻は新聞連載を担う立場、木村は同じく挿絵家の見地から石井を擁護している。

 だがここではやはり当事者の石井の言を傾聴すべきであろう。それは挿絵の隆盛と新聞雑誌の小説連載における作家と挿絵家の問題へとも派生していったようにも思われるからだ。まず石井は「自序」で、『大菩薩峠』の新聞連載について、「中里介山作・石井鶴三画と明記して、この両人の名を以て世に発表したるもの」で、「一人の文を作り、他の一人が之に挿絵として絵を描く建前に於て」、「中里氏と小生の文画協力に成る、共著作物と見るべきもの」との主張を提出している。そしてそれに対する介山の「奇怪なる言動」に言及していく。

 小生の画が中里氏の文中に挿絵として使用されていることにより、或は其挿絵として使用するために描きたることにより、之を或は自己の作なりと云ひ、或はこれを自作小説の複製なりと云ひ、当然小生の有する画の著作権までも、自己の専有するところなりと誤認して居られるのでありまして、この誤認に基き、この画集の出版に対して、中里氏の有する著作権を侵すものとなし、(中略)もし挿絵のみが、其画家の手により単独に出版出来るといふ事が実現されるならば、著作権の根本が成り立たぬのではないかとまで云ふて居らるゝのであります。

 さらに介山は「大菩薩峠」という文字が商標登録されていることも、画集出版が商標法に抵触すると主張しているようだ。この問題は石井もいっているように、「単に中里対石井個人間の問題のみではなく、一文学者の為に画家及び画道が冒涜されん」とする事態であり、「画道の尊厳と画の著作権を、擁護せんとする挙」として「此出版を敢行」すると述べている。

 これは隆盛を迎えていた挿絵画家にとっても大きな問題で、介山の主張が通るのであれば、挿絵の独立も著作権もなく、作家に帰属するものになってしまう。介山の特異な性格を考慮したとしても、石井から見れば、「奇怪なる言動」と判断するしかなかったのであろう。光人社の発行者である中島謙吉の「本挿絵の出版に際して」までに至らなかったけれど、中島と光大社に関しては、『近代出版史探索Ⅱ』338、その後の石井の挿絵集出版については『同Ⅲ』474を参照してほしい。


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