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古本夜話1378 田中貢太郎『貢太郎見聞録』とシナ居酒屋放浪記

 実は上海滞在中の村松梢風を訪ねてきた人物もいるのである。それは『近代出版史探索Ⅲ』545の田中貢太郎で、しかも村松は「Y子」とともに彼を迎えたことを『魔都』で書いている。

 

 私とY子 がそんな生活を始めて四五日経つた処へ、私の親友の田中貢太郎が日本から到着した。其の日は珍しく小雨が降つてゐた。私は貢太郎が乗つて来る長崎丸を迎へに匯山碼頭へ行つた。船は定刻より少し遅れて一時頃に着いた。甲板へ出て陸を見てゐる一等船客の群れの中に背広の上へカーキー色のスプリングコートを着てペチヤンコの茶の中折帽を眼深に冠つてゐる真ん円つこい丈の低い貢太郎の姿を発見して私がハンカチを振りゝゝしてゐると、余程経つてから彼の方でも私を見出して、髭の中で顔を崩して笑ひ乍ら帽子を取つて振つて見せた。

 このシーンを引いたのは田中の洋服姿を伝えるためである。村松が田中を「親友」と述べているのは二人が『中央公論』の「説話欄」=情話物をともにして人気作家となったからで、田中の支那行きも、中央公論社で打ち合わせしてあったことによっている。しかもその際に、田中は土佐っ子であり、洋服を身に着けたことがなかったのだが、中央公論社近くの村松の懇意な洋服屋で服をあつらえ、それを着てきたのである。

 村松は初めて見る彼の洋服姿を「大変よくうつるぢやないか」とほめる。それはまだ大正を迎えても、洋服を着たことのない日本人が多く存在していた事実を物語っているのではないだろうか。それにおそらくその洋服は田中の中公文庫版『貢太郎見聞録』(大阪毎日新聞社、東京日日新聞社、大正十五年初版)のカバー裏写真に、照れくさそうに写っているカラーネクタイ姿のものと同じであろう。

(大阪毎日新聞社版) (中公文庫版)

 だが田中のほうは上海に何日かいただけで、地方旅行に出かけ、「江南の天地、風光明媚、酒に老酒がある。白楽天陶淵明の古事を学んで貢太郎の詩嚢肥ゆるばかりである。彼が這の回の紀行が、文章となつて現はれるときこそ、まさに刮目して睹るべきものがあらう」と村松は書きつけている。その村松の期待にたがわず、田中は帰国後に「シナ漫遊前記」「上海瞥見記」「美酒花雕記」を書き、『貢太郎見聞録』に収録されることになる。

 「シナ漫遊前記」は三人の知己の死をきっかけとして、ずっと考えていたシナ漫遊を決意したことなどが語られ、はまさに村松も出てきて、彼が『魔都』でふれている青蓮閣という茶館や競馬場にいったこと、支那料理の宴会や園遊会のことなどを俎上に載せているけれど、村松が記した「魔都」としての上海のイメージは淡く、また中里介山のような武術的な眼差しもなく、上海という都市も三者三様であることが伝わってくる。

 ちなみに「上海の内山書店」(『書店の近代』所収)や拙稿「『横光利一全集』と上海」(『古本探究Ⅱ』所収)も加えれば、五者五様というべきかもしれない。それでも村松の『魔都』はカレードスコープのような存在であり、同時代のパリやベルリンやニューヨークとも通底していることになろうか。

書店の近代―本が輝いていた時代 (平凡社新書) 古本探究 2

 しかし田中の本領が発揮されているのはやはり「美酒花雕記」に他ならない。それもそのはずで、田中が酒仙として、「シナで日本人にまで老酒(ラオチユ)としられている紹興酒(セウシンシユ)は、近世の美酒の一つであらう」ことを具体的に語っているからである。まず上海の杜甫の詩にもある酒家=酒桟(チユザン)へと出かけていく。「汚い所ですよ、しかし酒は佳いのですからね」という酒徒の言に誘われてであった。そして紹興酒のうちの花雕(ホーチヨー)が勧められ、田中が飲むと、「それは黄金色をした舌触りのとろとろした酒」で、師の大町桂月が「老酒はアルチュウにならないから、いくら飲んでも好いそうだ」といったことを思い出す。
 
 『貢太郎見聞録』は「桂月先生終焉記」で閉じられている。

 その桂月の言を受け、田中をこの酒家へと伴った詩人酒徒はいう。「そうです。この酒は、いくら飲んでも、ぐでんぐでんにはなりませんからね、いつまでも陶然として好い気持ちでいられるのですからね」と。この言はまさに「白楽天陶淵明の故事」をしのばせる酒のようにも思われる。それだけでなく、「ここは、料理にも飽き、茶屋酒にも飽いた者が、真箇に酒を飲みに来る所ですよ、ここでは、いつでも走りの肴を喫わす」酒家だといわれ、田中はそれらの目の前にある三、四皿の肴を挙げている。具体的にはそれらも引いてみたいのだが、漢字も難しく、すべてにルビつきで、どのようなものなのか判然としないので、それは見送ることにしよう。

 だがこの酒家に連れられていき、酒がよく肴がうまかったエピソードは村松の『魔都』でも語られ、翌日もまた出かけていることからすれば、本当にこの上海の南京路の王宝和(ワンポウアー)という酒家は名店であったのだろう。田中のシナ居酒屋放浪記はそれから揚州、蘇州、杭州と続き、南京までの紹興酒巡りも語られ、紹興酒の本場である紹興へとも向かう。それらに言及することはできないけれど、「美酒花雕記」は村松が予想したように、白楽天や陶淵明には及ばないけれど、「シナの銘酒の紹興酒/しんとろとろと旨い酒」に始まる戯句によって終わっている。


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