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古本夜話1403 「万有文庫」とクロポトキン『相互扶助論』

 まったく偶然だが、前回の潮文閣の高橋政衛を発行者とする「万有文庫」をまとまって十六冊入手した。それはヤフーのオークションを通じてで、妻が発見してくれたのである。そこで一編挿入しておきたい。

( 万有文庫)

「万有文庫」のことは『近代出版史探索Ⅱ』217の「万有文庫と河原万吉、潮文閣と高島政衛」で、河原訳のゾラ『居酒屋』に言及しているが、全三十六巻が刊行されたことにふれているだけで、その明細は判明していなかった。それゆえに『居酒屋』を加え、入手した明細だけでもリストアップしてみる。数字は巻数を示す。

1 ダンテ    『神曲上』
2  〃     『神曲下、新生』
3 ダーウィン  『種の起源』
6 ルソー    『民約論』
10 トルストイ  『戦争と平和』上
11   〃       〃    下
12 老子     『老子』
15 ファーブル  『昆虫記』
18 マルサス   『人口論』
21 ショーペンハワー 『意志と現識としての世界』上
22   〃           〃       下
25 カーライル  『フランス革命』上
26   〃        〃   下
29 クロポトキン 『相互扶助論』
33 ゾラ    | 『居酒屋』
35 清少納言   『枕草子』
36        『万葉集』

「万有文庫」明細は管見の限り見ていないので、今回入手した十六冊によって、その半分近くが明らかになったことになる。先の拙稿を反復してしまうが、判明していることだけでも記しておけば、「万有文庫」は昭和二年に円本と同じく「非売品」扱いで予約刊行された三六判、上製天金の「抄訳叢書」である。その監修は「東洋文学」が和田万吉、「泰西文学」が矢口達、「自然科学」が三宅驥一、「社会科学」が北昤吉となっている。それぞれの監修の内実は不明だが、彼らの意向も反映されているのであろう。

 それらに加えて、前回の小山内薫を編集長とする近代演劇と文学の紹介をコアとする『新思潮』をめぐり、編集と出版人脈が絡んでいく中で、高橋政衛と潮文閣も招聘された。そうした編集と出版の関係が昭和円本時代まで継続し、「万有文庫」が企画されるに至った。それは小石川区水道端町の万有文庫刊行会、もしくは小石川区大塚町の潮文閣による刊行へとリンクしていったのであろう。

(創刊号)

 この万有文庫刊行会と潮文閣が印刷所を主体としていることはうかがえるけれど、円本と見なしていい「万有文庫」の流通販売はまったく判明しておらず、取次や書店を経由していたのか、それとも直販だったのかもつかめていない。ただ『近代出版史探索Ⅵ』1186で既述しておいたように、高橋は第百出版社、第百書房を名乗って、特価本業界における譲受出版にも関係していた。そのことを考えると、特価本業界ならではの流通販売ルートにも通じていたはずで、円本もそうしたインフラを利用していたのかもしれない。

 だが高橋と流通ルート以上にわからないのは「万有文庫」の翻訳事情で、河原万吉は翻訳代表者として奥付の多くに名前を残しているのだが、彼が実際にどれほど翻訳に携わっていたのかは不明だというしかない。河原に関しては『近代出版史探索Ⅵ』1145,1146,1147で、その出自とプロフィル、多彩な著者としての軌跡、思いがけずにスエデンポルグの『天界と地獄』の翻訳も手がけていて、それが三島由紀夫の蔵書だったことにもふれておいた。しかし「万有文庫」の翻訳については語られていないし、原書から実際に翻訳したのか、それともすでに刊行されていた翻訳書をベースとして、「抄訳」したのか、判断すべき証言が見当たらないである。

 それでも「抄訳叢書」とはいえ、短期間で三十巻を超える翻訳をこなすのは難しいし、翻訳プロダクションシステムを想定せざるを得ない。この集団翻訳システムは拙稿「大宅壮一の翻訳工場と榎本桃太郎」(『古本屋散策』所収)で言及している。中央公論社の円本と見なしうるリチヤード・バートン『千夜一夜』全十二巻はこの大宅の翻訳工場を経て刊行されたのである。この工場の中心人物の榎本はアナキストで、英独仏伊語に通じ、クロポトキンの『パンの略取』(黒色戦線社)を発禁覚悟で翻訳刊行したという。

  

 先のリストからわかるように、「万有文庫」29はクロポトキンの『相互扶助論』だが、この翻訳は入手するまで知らずにいたものだった。これも奥付の翻訳代表者は河原とされている。彼もまたマックス・シュテルナーに連なるアナキスト人脈に属していることは承知しているし、『近代出版史探索Ⅱ』231で、『相互扶助論』の翻訳事始めと大正六年の大杉栄訳の春陽堂版刊行までをたどっている。だが同じ翻訳と思想系譜からすれば、榎本たちの翻訳工場の産物であるかもしれないという思いも捨てきれない。

 榎本も特異な一生をたどった人物だが、河原もそれに劣らない存在で没年も不明だし、円本時代の翻訳者たちの存在は、本当に出版史の闇に埋もれているというしかない。

 その後、河原が万有文庫刊行会の仕事に携わる以前に、『近代出版史探索』100などの新光社に在籍していたこと、没年は昭和五十六年であることを知った。いずれまた彼に関しては書くつもりだ。


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