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古本夜話1406 『辞苑』と新村猛『「広辞苑」物語』

 続けて「南蛮物」の著者としての新村出を取り上げたが、新村といえば、やはり岩波書店の『広辞苑』の編纂者ということになるだろう。

広辞苑 第七版(普通版)

 『近代出版史探索Ⅴ』852で明治大正のロングセラーの定番辞典として、上田万年などの『大日本国語辞典』、大槻文彦の『大言海』(いずれも冨山房)、芳賀矢一の『言泉』を挙げておいたが、これらに比べて、『広辞苑』は昭和三十年の刊行という戦後の出版で、版元の岩波書店の名前も重なり合い、現在の辞典の一大ブランドであり続けている。

 大日本国語辞典 (1915年)(『大日本国語辞典』)(『大言海』) (『言泉』)

 しかしここではそこに至るまでの様々な出版と編纂に関わる長い歴史をたどってみたい。それはやはり浜松の時代舎で、『広辞苑』の前身に当たる『辞苑』を入手したからで、これは昭和十年に博文館によって刊行されている。本文索引などを含めて二二八五ページ、定価四円五十銭に及ぶ大冊は好調な売れ行きを示したようで、奥付を見ると、昭和十年二月発行、同五月六十版とある。それに博文館は買切制を維持していたはずなので、当時の重版表記の問題はひとまずおくとしても、一括採用も含めて書店注文も殺到したことを伝えている。

 

 その一方で昭和十二年刊行の『博文館五十年史』は同年までしかたどられていないこともあってか、十年も簡略で、その書影は掲げられているものの、「是は爾来年々版を重ねて居る」との記述が見えるだけで、『辞苑』の出版事情などは語られていない。それは新村も同じで、その「跋」において、次のように述べているだけである。

 新時代に適応する国語辞典は、従来の国語辞書に満足することを許さない。即ち一般大衆の要求する国語語彙の範疇は、普通にいふ所の国語語彙の蒐集にとどまらず、人生に緊切なるすべての事項を包含し、これに依つて、国語読本を容易に読解し、将又、新聞・雑誌上の事項を的確に会得したるものでなくてはならない。而して一冊の辞書を以てして、この複雑した任務を遺憾なく果し得るものは、編者の寡聞なる、未だ之を発見するを得ない。これ、編者が本書を提供して批判を請ふ所以である。

 これは『辞苑』のコンセプトに他ならず、その出版前史は語られていない。だが幸いなことに、『広辞苑』第二版刊行後に新村猛の『「広辞苑」物語』(芸術生活社、昭和四十五年)が出され、その「物語」が明らかにされたといっていい。それらは岡茂雄の『閑居漫筆』(論創社)でも断片的にふれられていたが、新村猛は出の息子で、実際に長きにわたって父を助け、共同編纂者のポジションを占めていた。それもあって『「広辞苑」物語』は新村出の伝記にして、戦前の『辞苑』から戦後の『広辞苑』へと結実していく時点の出版史を形成しているので、岡の証言を参照しながらトレースしてみる。

「広辞苑」物語 (1970年) (芸生新書)  

 新しい中型国語辞典の企画は拙稿「人類学専門書店・岡書院」(『書店の近代』所収)や『近代出版史探索Ⅴ』935の岡茂雄からの提案が始まりであった。岡は新村の『典籍叢談』(大正十四年)を出版していたし、新村のほうは大槻没後の『大言海』の完成に携わっていたことから、昭和初年に中型国語辞典のオファーが出された。その際に新村が示した条件は、教え子で福井県の国語教育者の溝江八男太の協力を得ることで、岡はただちに交渉に向かい、国語と百科兼用の辞書というコンセプトを提案した。それが先に引いた新村の「跋」文にも反映されているのだろうし、「自序」における溝江への「深謝」にも表われていよう。

書店の近代―本が輝いていた時代 (平凡社新書)

 しかし岡書院のような小出版社にとって、『辞苑』という国語と百科兼用の辞書の編纂は経済の問題として困難な事態に直面せざるを得ず、博文館の手に移されることになった。それは昭和九年のことで、その仲介の労をとったのはこれも同じく、『近代出版史探索Ⅴ』935の澁澤敬三だったのである。しかも『同Ⅴ』973、974の後藤興善も編纂に加わっていた。そして編纂に着手してから四年という短期間の昭和十年二月に刊行の運びとなった。

 新村猛が『「広辞苑」物語』で参照している『辞苑』は私の手元にあるものと同じ昭和十二年五月六十版で、最初は出版に乗り気でなかった博文館の態度も変わり始めたようだが、出のほうは編纂経営と交渉で疲れ果て、博文館の仕事から手を引きたいという意向を示した。ところが岡の読者への責任もあるとの説得で、「自序」に見える「希わくは、博雅の士の教を得て、漸次本書の増訂完備を計り、自分としても、さらに平素の念願たる辞書に向つて邁進して行きたい」との心境に達したことになる。

 だが増補改訂版の仕事も困難きわまりなく、しかも昭和十三年は『言苑』というひとまわり小型の辞書も出され、その上に十六年が予定されていた。その協力者はこれも『近代出版史探索Ⅶ』1296の清水三男や林屋辰三郎たちだった。印刷にとりかかったのは昭和十七年になったが、戦局はきびしくなり、十九年秋には校正刷の加筆も印刷所で困難な状況となり、同じく編輯室も転々とする事態を迎えていた。それに加えて共同印刷地下室に保管されていた用紙が空襲のために全焼し、改訂版の刊行は絶望になってしまった。そして続く敗戦という混乱の中で、『辞苑』の印税はそれまでの諸経費の返済にほとんど当てられ、改訂のために費やされた金額は二万円に及び、途方もない負債となって新村に残されてしまった。

 しかし敗戦後の博文館に『辞苑』改訂版の出版は不可能で、岩波書店に肩代わりを依頼し、これまた『近代出版史探索Ⅵ』1112の梅徳たちの尽力で、博文館の借金も返済しようとしたが、さすがに博文館も受け取らず、改訂事業の打ち切りとで返済は帳消しとなったのである。それから岩波書店での『辞苑』改訂作業の再開ということになるが、岩波書店に国語辞典編集部が発足したのは昭和二十三年九月のことで、それが『広辞苑』として刊行されたのは昭和三十年五月、編集に着手して七年、『辞苑』増訂まで遡れば、十七年を閲していた。

 新村猛が『「広辞苑」物語』において、次のように述べているのは、『辞苑』から『広辞苑』に至る編纂物語を長きにわたって、そのまま体験したからに他ならないだろう。

 辞書作りが、ある超人の独力でなされる場合はいざ知らず、今日ではむしろ、多数の学者の協力になる一種の組織的作業であることを思えば、編著の名を冠せられた者も単にその代表者に過ぎぬわけで、これら協力者の功労こそもっと顕彰されてよいのではないでしょうか。

 それは現在でも変わっていない辞書物語のように思える。


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