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古本夜話1427 長尾辰夫『シベリヤ詩集』

 オキュパイド・ジャパン・ベイビーズと呼ぶところの、占領下に生まれた私たちの世代は、当然のことながら戦争と無縁ではなかった。必ず家族が戦死したり、戦地から帰還したり、外地から引揚げてきたりしていたし、そこにはシベリア抑留者たちも含まれていたのである。私の場合は伯父が戦死しているが、友人の父親の何人かはシベリア還りだったと聞いている。

 高杉一郎は『シベリアに眠る日本人』(「同時代ライブラリー」83,岩波書店)において、シベリアに連れさられた日本人は六十万人に及び、そのうちの七万人は高杉も含めてイルクーツク州に投入されたと述べている。手元に長尾辰夫の『シベリヤ詩集』があり、昭和二十七年に『近代出版史探索Ⅴ』931などの宝文館からの刊行で、時代状況を考えれば、二十五年の高杉の『極光のかげに』の出版とベストセラー化や菅季治事件を背景にしていると考えられよう。それに長尾もまたイルクーツクでの抑留を経ていたのである。

シベリアに眠る日本人 (同時代ライブラリー)  

 『シベリヤ詩集』は「実体について」「若き兵士たち」「吹雪の曠野」「未明の闇に中に」「春待つ心」「漂う魂の歌」の六部仕立てで、六十余の詩から成立し、それらの多くは散文詩といっていいだろう。その序に当たる「実体について」は次のように始まっている。

 私は シベリアで 仮面を剥ぎとられた 人間野獣の実体を 見究める機会を得たが そこでは 一切の虚偽は抹殺され 仮借なき透写の鞭によって 身の秘密は勿論 惨虐を極めた 官能闘争図だの 原始体骨格だの 過去の経歴に至るまで 手に取るように 写し出されていた。
 ――この 完膚なき透視の探究こそ 人間生涯の詩学であり 美の言泉と言うべきだろう。

 ここで留意すべきは長尾がシベリヤの「人間野獣の実体」の中においてさえ、引用しなかった最後の言葉でいえば、「さんぜんたる血しぶきを浴びて」いながらも、そこに「人間生涯の詩学」や「美の言泉」を見出そうしていることであろう。そうして、主として「若き兵士たち」ではソ連の兵士たちの惨虐が語られ、「吹雪の曠野」においてはイルクーツクの氷原北帯の雪と白夜と労働が描かれ、「未明の闇の中に」あっては労働の中の季節と自然の推移がたどられ、「春待つ心」では林間逍遥と夜の光景が謳われ、「漂う魂の歌」においてはようやくの帰還とふるさとの風景が浮かび上がり、ここで「戦敗れて 僕たちは 悄然と 旗を巻き 遠い異境の地から 故山の土に舞い戻った」のである。

 この『シベリヤ詩集』に「悲痛切実の書」という「序文」を寄せているのは『近代出版史探索Ⅵ』1032の『現代訳 神曲地獄篇』の北川冬彦だ。このダンテの『地獄篇』にしても、日本の敗戦が相乗して刊行されたはずで、それは昭和二十八年の刊行であるから、この「序文」を書く一方で、おそらく北川はそのゲラのチェックと校正に取り組んでいたと思われる。そのことからすれば、『シベリヤ詩集』は長尾ならではのシベリヤ『地獄篇』として感知されたはずだ。「この詩集を繙く者は、恐らく、何人も悲痛骨を刺される想いに駆られずにはいないであろう」との書き出しの言はその事実を物語っているのではないだろうか。

近代出版史探索VI   

 そこで北川は、長尾が詩の同人誌『麺麭』『崑崙』をともにした一人で、敗戦時に満州の吉林にいたが、シベリヤに連行されたのではないかと黙然していたと述べている。それは事実だったのであり、「果して彼はシベリヤに抑留されていたのだ。最も悲運な星の下に」。そして続けて長尾が教職につきながらジャーナリズムとは無縁の「真の詩人的詩人」ゆえに、「多くは散文型で書かれている」が「鮮新な一種の叙事詩」だと評し、次のように結ばれている。

 この『シベリヤ詩集』は、真面目な、愚直なまでに真面目な人間―長尾辰夫が、引当てたその大凶の籤もて作りあげた苦作、悲痛切実の書である。その詩風は、ネオ・リアリズムの一指向性としての「社会性」具備に、期せずして到達した。これほど社会問題を孕んだ詩集は近来、まことに稀であると云っていゝ。

 ここで北川が「ネオ・リアリズム」のタームを当てているのは、彼が長尾たちと先の『麺麭』の他に、昭和五年にネオ・リアリズムの散文詩運動を標榜する『時間』に携わっていたことに起因していよう。この北川主宰のリトルマガジンは『詩と現実』へと継承されていくのだが、長尾の名前は『麵麭』や『時間』の寄稿者として、『日本近代文学大事典』の人名索引に見出すことができる。

 ただ私としては、このネオ・リアリズムを昭和二十四年のデ・シーカのイタリア映画『自転車泥棒』に始まるネオ・レアリスモに重ねてみたいと思う。それは昭和二十年代のイタリアのネオ・レアリスモもまたモノクロの敗戦映画に他ならなかったからだ。

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