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古本夜話1426 高杉一郎『往きて還りし兵の記憶』と平澤是曠『哲学者菅季治』

 ここで高杉一郎と『極光のかげに』に関連して、その補遺的二編を付け加えておきたい。

 高杉は『往きて還りし兵の記憶』で、その一章を「菅季治の死」に当てている。私はそこで菅の名前を初めて知ったが、占領下日本とシベリア抑留問題を通じて、菅の死は社会的事件だったのである。高杉は菅の貴重な文献として、菅の友人の田村重見が編んだ『友 その生と死の証し―哲学者菅季治の生涯』(カガワ印刷、昭和六十二年)を挙げている。また『20世紀年表』(毎日新聞社)において、昭和25年2月12日に始まる菅をめぐる出来事は、4月27日の彼の飛び込み自殺までがたどられている。それだけでなく、最近になって浜松の典昭堂で、平澤是曠『哲学者菅季治』(すずさわ書店、平成十年)を見つけてしまった。その棚にはシベリア抑留関係書が多く並べられていたことからすれば、おそらく抑留者の死によって、その蔵書が放出されたと考えられる。

征きて還りし兵の記憶    友 その生と死の証し:哲学者管季治の生涯   20世紀年表 (シリーズ・20世紀の記憶 (別巻))   哲学者菅季治

 それらはともかく、高杉と平澤の記述に基づき、その社会的事件と菅の死までをトレースしてみる。昭和二十五年にナホトカから還ったシベリア抑留の三七三名の「日の丸組」は国会にあてて次のような懇請書を提出した。

 「カラガンダ第九分所に在りしとき、所長代理中尉シャヘーフ、政治部将校ヒラトル少尉(通訳日本人菅某)は、全員集会の席上、捕虜への帰還質問にたいし、左の如く言明せり。
――「日本共産党書記長徳田球一氏により、その党の名において思想教育を徹底し、共産主義に非ざれば帰国せしめざる如く要請あり。よって反動思想を有する者は絶対に帰国せしめぬであろう」

 これは高杉が引いている「日の丸組」の懇請書の前半部分だが、この徳田の要請めぐって、国会における徳田要請問題が動き出すことになる。ここで(通訳日本人菅葉)とあるのが菅季治のことで、彼はその前年に舞鶴に帰還し、この年の一月には母校の東京文理大の後身の東京教育大哲学科に研究生として通い出していた。高杉は菅が大学の後輩であり、この問題が他人事とは思えなかった。

 この徳田要請問題を受け、三月に菅は参議院引揚委員会、朝日新聞社、『アカハタ』に「報告」という文書を送り、自分が通訳だとして、その経緯と事情を述べている。日本人抑留者の一人が「われわれはいつ帰れるのか、一一月までに日本人を帰すというソ連政府の声明はわれわれには適用されないのか」との質問を発した。だが所長代理のシャヘーフ=シャフィーフは答えられず、ヒラトル=エルモラーエフがそれに応じたことになり、菅はロシア語と日本語を併記し報告している。それが平澤の著書のエピグラフとして置かれているので、日本語のほうだけを示す。

 「いつ諸君が帰れるか? それは諸君自身にかかっている。諸君がここで良心的に労働し真正の民主主義者となるとき諸君は帰れるのである。日本共産党書記長徳田は、諸君が反動分子としてではなくて、よく準備された民主主義者として帰国するように期待している。」

 「日の丸組」の懇請書においては「要請」となっているが、菅は「期待」と訳していたのである。しかし三月の参議院考査特別委員会の菅の証言にあるように、帰国問題をめぐる不安の中での徳田発言が「期待」ではなく、「要請」と受け取られても仕方なかったというニュアンスも必然的につきまとっていたと。そのようなソ連と抑留問題状況に関して、高杉は書いている。

 だから、「日の丸組」が国会へ提出した懇請書は、戦陣訓しか教えられずに出征した日本の庶民が、敗戦後になめさせられたかずかずの苦汁と、そこから学びとったみずからの智志にもとづいて、ポツダム宣言の第九項をいつまでも履行しようとしないスターリンの不満と抗議を、祖国の国会へはじめて訴え出たのだと解釈すべきものだったのである。
 矛盾と対立は、日本人俘虜全員とスターリンの俘虜抑留政策のあいだにあったのであって、日の丸組と徳田書記長のあいだにあったのでもなければ、日の丸組と菅季治のあいだにあったのでもない。

 ところが四月の同委員会において、高杉の言葉を借りれば、菅は「なぐる、蹴るのリンチ」を受け、次々と挑発と「詭弁」で責めたてられ、それはまさに「犯罪者にたいする警察官の訊問」だったのだ。その「リンチ」は菅が通訳を担っていたのは共産党員だったからではないかという「挑発」から始まるもので、その決着に及んで、「ナデーエツァ」は「要請」と訳せないのかとの問いが出された。それに対し「要請」はカントの実践理性における特別な言葉で、「ふだんの私自身はあまり聞いておりません。要求するというのはトレポワーテです」と菅は答えている。するとそこでハルピン学院第一期卒業生を名乗るロシア語専門家が「要請と訳してもいい言葉」だと断定し、徳田要請は事実と発表されてしまう。

 菅は京都大学大学院在学中に召集令状を受け、奉天にて敗戦となり、カラガンダ収容所に送られ、ロシア語を独学し、通訳を引き受ける状況を強いられたといえよう。それが「徳田要請問題」へとリンクしていったのである。彼はその考査委員会から帰り、自死へと赴いたことになる。高杉はこの菅の死をふまえ、「私は不満だった。なにもかも不満だった。社会主義の現実を生活して還ったすぐれた頭脳とかけがえのない体験を死に追いやって葬り去った祖国の選良たちに不満だった」と書きつけている。そして菅の無念を晴らす意味もこめて、シベリアでの「私自身が身に受けた仕打ち」としての「シベリア俘虜記」を『極光のかげに』として書くことを決意したのである。

   
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