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古本夜話1428 長谷川四郎『シベリヤ物語』

 前回、長尾辰夫の『シベリヤ詩集』を取り上げたのだが、長谷川四郎の『シベリヤ物語』に言及しないわけにはいかない。しかもこの二冊は詩集と小説の違いはあるにしても、出版は昭和二十七年と同じで、前者が二月に対して、後者は八月に刊行されている。やはり『シベリヤ物語』の出版にしても、高杉一郎の『極光のかげに』のベストセラー化と不可分であろう。

  (筑摩書房版) 

 これはいうまでもないけれど、長谷川の長兄は『近代出版史探索Ⅳ』616の谷譲次(牧逸馬、林不忘)、次兄は画家の潾二郎、三兄は『同Ⅴ』884の長谷川濬で、四郎も含めた長谷川四兄弟雄に関しては川崎賢子『彼等の昭和』(白水社)が好著として挙げられる。私たちの記憶によれば、昭和五十年前後に文学者としてよく知られていたのは長谷川四郎で、晶文社から『長谷川四郎全集』全十六巻も刊行され始めていた。それは『日本近代文学大事典』の立項にも明らかで、一ページ余におよぶものだった。そこから簡潔なプロフィルと『シベリヤ物語』に関連する部分を抽出してみる。

彼等の昭和―長谷川海太郎・りん二郎・濬・四郎 (『彼らの昭和』) 長谷川四郎全集〈第1巻〉 (1976年)(『長谷川四郎全集』)

 長谷川は明治四十二年函館生まれで、函館中学を経て、昭和十一年に法政大学独文科卒業後、十二年に満鉄に入社し、大連図書館で欧文図書の整理に従事する。十三年には北京の満鉄使者経済調査所資料係となり、十六年には大連の満鉄調査部地方班に移り、シベリア事情の調査にあたり、アルセーエフの探検記『デルスウ・ウザーラ』 を翻訳する。十七年に満鉄を退社し、新京の満州帝国協和会調査に入り、内蒙古地方を実地調査し、ラティモアの『松花江の魚皮族』を翻訳する。十九年三十五歳で召集され、ソ連国境監視哨に配属したが、二〇年八月ソ連軍に攻撃され、満州里で敗走し、興安領山中で捕虜となった。十一月にシベリア、テタ近郊のチェルノフスカヤの炭坑に送られ、各地の捕虜収容所を転々とし、コルホーズ、煉瓦工場などで、また道路工夫、材木流送、線路工夫として強制労働についた。二十五年四十一歳で帰還し、これらの体験をベースとする作品を『近代文学』に発表し、二十七年に『シベリヤ物語』として、筑摩書房から刊行する。

デルスウ・ウザーラ―沿海州探検行 (東洋文庫 55)(東洋文庫版)

 そうした長谷川の十五年近い長きにわたる満州生活とシベリア抑留は必然的に『シベリヤ物語』を異化させ、従来の抑留記と異なるかたちで提出されているので、それを読んでみよう。ただ筑摩書房版は入手しておらず、かつて旺文社文庫版で読んでいたのだが、出てこないので、『長谷川四郎全集』第一巻所収の『シベリヤ物語』をテキストにすることを断わっておく。

(旺文社文庫) 長谷川四郎全集〈第1巻〉 (1976年)(第一巻)

 この作品集は「シルカ」に始まる十一の短編によって編まれ、それはまさにシベリアやチタの捕虜収容所を転々とし、コルホーズ、炭坑、煉瓦や鍛治工場などに送られ、野菜運搬者、工員、道路や線路工夫としての強制労働の日々を描いている。
語られ
 だがそれは日本人だけでなく、それぞれの町とそこに暮らす人々、ロシア人たちと将校、多様な労働と捕虜ならではの仕事が語られ、他の抑留記とは異なる哀感を帯びる物語世界が見出されていく。本来であれば、すべての作品の登場人物と物語のコアを紹介したいし、「小さな礼拝堂」における二人の日本人の死、「ラドシュキン」の本屋の話にもふれてみたいと思う。だがそれは長くなってしまうので、慎むしかない。

 やはり先に挙げた「シルカ」を優先すべきだろう。「シルカ」は町の名前で、同じ河に由来していたが、河岸にあるのではなく、鉄道に沿った小さな町だったが、駅はかなり大きかった。それは幾条かのレールが集まっていたからだ。しかし捕虜の「ぼくら」は馬車で運ばれていたのである。この町に近づいていくと、ロシヤ寺の高い尖塔と円屋根が見え、この田舎町では依然として聖職者がまだ幅をきかしているかと思われたが、それは間違いで、その寺院は完全な廃屋と化し、その内陣は町の共同便所となっていたのだ。

 この町の中心は広場で、「ぼくら」がいた十日間は革命記念日のために人々が続々と集まってきていた。だがいつものシルカは静かな田舎町で、鉄道絡みの工場があるだけだった。それでも秋になると、周辺のコルホーズから収穫物が集まり、活気を帯びていた。そうした光景が次のように描かれる。

 秋もそろそろ終わりで、野菜集めのかき入れどきだった。沿線の空地にはおびただしい野菜の山が幾つも幾つも野積みされて、それぞれに貨車の到着を待っていた。そしてこれらの野菜の一つ一つには、それぞれ一人ずつ、番人がつけられていた。それらの番人たちは夜になると大へん寒いので、巨大な羊皮など着こんで、てんでに自分の火をたいて、野菜を煮たり焼いたりして、自らも食い、且つは、町の市民たちと役得上の取引をやっていた。

 「ぼくら」もその沿線の空地の軍隊テントに護衛兵たちと寝ていた。そこに大尉の命令が下され、真夜中までキャベツの貨車への積み込みをやらされた。翌日はトラック乗せらられ、コルホーズへと向かう。今度は女性の野菜班長に命じられた馬鈴薯の積み込みで、彼女は「ぼくら」を捕虜とか日本人ではなく、ただ「未熟な労働者」として扱い、別れの際には笑顔で手を振るのだった。

 実際には「シルカ」でこれらのロシア人登場人物たちに名前がふられ、それぞれに細やかな観察と描写がなされ、それらを物語の回転軸のようにして、展開されていくのである。その実例として、先から引用したシーンを重ねてもらえば、了承されるであろう。つまり『シベリヤ物語』は全作品がそのようにして成立している。

 なお付け加えておけば、長谷川を文学へと決意させたのは『近代出版史探索Ⅶ』1391などの片山敏彦で、『近代文学』における『シベリヤ物語』の連載も、本探索1407の山室静などの誘いによっている。


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