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古本夜話1465 エルジェ『タンタン ソビエトへ』

 続けてアーサー・ランサムにふれ、彼のロシア革命とのかかわりも既述したので、イギリスとベルギーのちがいはあれ、同時代のエルジェの「タンタンの冒険」シリーズにも言及しておきたい。それはこのシリーズの最初の作品が『タンタンのソビエト旅行』でもあるからだ。これは一九二九年にベルギーの日刊新聞『20世紀』の子どものための週刊付録『プチ20世紀』に連載され、翌年に出版されている。その事実はタンタンの誕生やその冒険にしても、二十世紀におけるロシア革命とリンクしていたことを物語っていよう。

 作著のジョルジュ・レミは『20世紀』の若き記者として働き始めたのだが、すぐにイラストレーターとしての才能を発揮し、新聞にイラストを描くようになる。そして『プチ20世紀』の編集をまかされ、まだヨーロッパではポピュラーでなかったアメリカの新聞連載コミックに刺激され、自らも絵物語と異なり、登場人物の言葉を通じて展開されるコミックを描こうと決心したのである。いってみれば、まだ命名されていなかったが、フランスのコミック「バンド・デシネ」の先駆者に他ならなかった。

 かくして彼はエルジェのペンネームで二九年から『プチ20世紀』の見開き二ページを担い、タンタンと呼ばれる少年新聞記者をデビューさせ、ボルシェヴィキの悪をあばくためにモスクワへと向かわしめたのだ。この『タンタンのソビエト旅行』は三〇年に単行本化されたが、エルジェにとって、後続の作品のように綿密な資料調査に基づくものでなく、当時のソビエトへの偏見をそのまま受け入れ、描いてしまったことは問題だと考え、長い間絶版状態のままで、幻の作品と化していた。

 だが多くの海賊版も出されるに及んで、五〇年後の一九八一年に初版復刻本が刊行に至った。ただエルジェは八三年に亡くなり、九一年にはソ連が崩壊したことも重なり、九九年にタンタンの版元のベルギーのカステルマン社が「タンタンの冒険」全二十四巻を刊行するに際し、その第一巻として『タンタンのソビエト旅行』が白黒版として収録されることになった。

 そして日本においても、こちらは「タンタンの冒険」シリーズの掉尾の二十四巻の『タンタン ソビエトへ』(川口恵子訳、福音館書店、平成十七年)として刊行されたのである。それは次のようなリードによって始まり、これがタンタンの記念すべきデビューだったのだ。それ以後のタンタンの波乱に充ちた冒険の数々を予兆させているので、示しておこう。ルビは省略する。
タンタン ソビエトへ (タンタンの冒険)

 海外でおこる最新のニュースをお伝えしてつねに読者のニーズにおこたえする
   「プチ20世紀」新聞は
 わが社のほこるトップジャーナリスト
   タンタンを
 このたびソビエト連邦へと派遣しました。
 かの地でくりひろげられる波乱にみちた
 冒険の数々を、迫真のルポタージュで
 毎週皆様のものにおとどけいたします。

 そしてここに愛犬スノーウィを伴うタンタンの冒険の幕が切って落とされたことになり、ようやく幻の作品を読むことができたのである。だがこのタンタンの唯一の白黒版を読んでみると、あながちソビエトとコミュニズムへの偏見によって描かれただけだとは見なせないし、『近代出版史探索Ⅶ』1290の『エマ・ゴールドマン自伝』の「ロシア一九二〇―二一年」も参照されているのではないかと錯覚してしまうところも散見できる。それはチェカ(非常委員会)の暗躍、ネップ(新経済計画)の失敗と食糧危機、強制収容所の存在なので、エルジェはタンタンを通じて、ファシズムと通底するコミュニズムの陥穽を透視していたことを示しているようにも思われる。

  エマ・ゴールドマン自伝〈上〉 エマ・ゴールドマン自伝〈下〉

 そうしたソビエトとコミュニズム状況をエルジェに示唆したのは、ジョセフ・ドゥイエ『ヴェールをはがされたモスクワ』という一冊だった。それはマイケル・ファー『タンタンの冒険 その夢と現実』(小野耕世訳、サンライズライセンシングカンパニー、平成十四年)において、Joseph Douillet , Moscou sans voiles (Neuf ans de travail au pays dos Soviet’s) , Editions Spes , Paris , 1928) として書影が紹介されている。ドゥイエはベルギーの外交官のようで、サブタイトル に「ソビエトの国で九年間」とあるように、領事としてソビエト各地に赴任し、その悪と腐敗を告発し、ベストセラーとなっていたようだ。ちなみに『近代出版史探索Ⅳ』816のジイド『ソビエト旅行記』にしても、彼が『タンタン ソビエトへ』を読んでいたとは思われないけれど、ドゥイエの著書には触発されていたかもしれない。

TINTIN タンタンの冒険その夢と現実 (『タンタンの冒険 その夢と現実』)

 『20世紀』はカトリック系の新聞で、その発行者は右派の司祭のノルベール・ワレ神父で、反コミュニズムを標榜し、「ボルシェヴィキを滅ぼせ!」をスローガンとしていたのである。そのようなジャーナリズム環境の中で、エルジェはドゥイエの著書に触発され、そのシーンを『タンタン ソビエトへ』を引用召喚している。ファーはその場面をそのまま転載しているので、福音館板を確認してみると、36ページの三コマに該当するとわかる。これはソビエトの選挙の強制的実態を浮かび上がらせている。また「ソ連共産主義のすばらしさを見せつけられているイギリスのコミュニストたち」の一コマも引かれ、それは邦訳の29ページに見出される。

 だがこのようなドゥイエの著書からの引用は、後のエルジェにとって、直接に確認していない安易な描写だと後悔され、長きにわたって復刻がためらわれていた要因であろう。しかしその復刻があってこそ、日本でも翻訳刊行されたと見なせよう。

 タンタンを始めて目にしたのは、最初の翻訳『黒い島のひみつ』(同前、昭和五十八年)によってだった。その後、ベルナール・ピヴォー編『理想の図書館』(パピルス、平成二年)において、その一章が「バンド・デシネ」に当てられ、そこにタンタンの『青い蓮』が挙げられていることを知り、そのタームもエルジェを先駆者としているのではないかと思った。ちなみにこれは下世話かもしれないが、訳者の川口は中沢新一夫人とされ、思わず『タンタン チベットをゆく』を想起してしまったのである。

ペーパーバック版 黒い島のひみつ (タンタンの冒険)  青い蓮 (タンタンの冒険旅行 14)  タンタン チベットをゆく (タンタンの冒険)  


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