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古本夜話1466 ツヴァイク『人類の星の時間』と「封印列車」

 『近代出版史探索Ⅶ』1391のツヴァイクは一九二七年に歴史小説集『人類の星の時間』(片山敏彦訳、みすず書房)を刊行している。「星の時間」とはツヴァイクの造語と見なしていいし、彼はその「序」で記している。

人類の星の時間 歴史の決定的瞬間の12章

 多くのばあい歴史はただ記録者として無差別に、そして根気よく、数千年を通じてあの巨大な鎖の中に、一つ一つの事実を編み込んでゆく。要するにどんな緊張のためにも準備の時がなければならず、どの出来事の具体化にも、そうなるまでの進展が必要だからである。一つの国民の中に常に無数の人間が存在してこそ、その中から一人の天才が現われ出るのであり、常に無数の坦々なる世界歴史の時間が流れ去るからこそ、やがていつかほんとうに歴史的な、人類の星の時間というべきときが現われ出るのである。

 その「星の時間」とは個人の一生や歴史の中にあっても、稀にしかない。「劇的な緊密の時間、運命を孕むそんな時間」に他ならず、「星のように光を放ってそして不易に、無常変転の闇に上に照る」のだ。だが『人類の星の時間』の二七年初版において、「ナポレオンとグルシー」から始まる五編だけの収録だったが、ツヴァイクの死後の四三年の決定版では一二編に増え、ここで取り上げる「封印列車」はその際に加えられた最後の一編である。それは二十ページに満たない短編といえるし、発表年も不明だけれど、エドマンド・ウィルソンの大河ドラマともいえる『フィンランド駅へ』(岡本良明訳、みすず書房)などへの範となったように思われる。

フィンランド駅へ 上

 「封印列車」にはサブタイトル「レーニン 一九一七年四月九日」が付され、ツヴァイクは一九一五年から一八年にかけて、世界大戦の大波に取り巻かれていた小さな平和の島としてのスイスは「絶えず刺激的な探偵小説のような事実の舞台であった」と書き出している。各国のスパイと密偵たちが入り乱れる中で、靴直しの家に妻とともにロシアから亡命してきたずんぐりとした小男が住み、規則正しく図書館に通っていたが、そのレーニンという名も知られていなかった。かつて拙稿「亡命者と図書館」(『新版 図書館逍遥』所収)で、このスイス時代にレーニンがチューリッヒ図書館で『帝国主義論』を執筆していたことを既述している。

新版 図書館逍遙

 そのレーニンのところに、一七年三月十五日にロシアで革命が勃発したことが伝えられた。ようやく自由の身となって帰国できるし、今やあらためてロシア革命に生命を賭ける時がきたのであり、一刻も早くロシアへと帰らなければならないのだ。だがスイスはイタリア、フランス、ドイツ、オーストリアの間にはさまれ、ロシア人革命家として敵国人のレーニンは、これらの諸国家を自由に通過することはできないはずだった。

 しかしドイツ政府との交渉を通じて、旅費は自己負担で治外法権が承認され、旅券点検や人物訊問はなされず、封印列車として外には出られないという条件で三十二人がリューリッヒ駅に集まった。そのうちで広く知られていたのはレーニン、ジノヴィエフ、ラディックだけで、女性や子供たちもいっしょだった。「今や彼らは世界歴史的な汽車旅行」に向かおうとしていた。そして汽車はドイツ国境駅に向かって走り出し、そこで「封印列車」に乗り換え、スウェーデンを抜け、ロシアの国境にたどりついた。汽車がフィンランド駅に入ると、駅前広場では数万の労働者と兵士たちが待ち構え、インターナショナルの歌が鳴り響き、レーニンが下車し、民衆に向かって最初の演説をした。そして「かずかずの街路はふるえ、やがてまもなく『世界を震駭する十日間』が始まった」のである。すなわちロシアにおける「星の時間」といえよう。

 これがツヴァイクが描いた小編「封印列車」で、先述したように執筆年代は定かでないが、ジョン・リードの『世界をゆるがした十日間』やアーサー・ランサム『ロシアの一九一九年 六週間』、自らの二八年のロシア旅行に基づく「トルストイ伝」(『三人の自伝作家』所収)をふまえ、ラフスケッチされたものだと推測される。しかしこの小編の波紋はおそらくツヴァイクの想像以上に拡がり、ソルジェニーツィンの『チューリヒのレーニン』(江川卓訳、新潮社、一九七七年)、オーセン・セラー『ペトログラード行封列車』(松田銑訳、文藝春秋、一九八一年)などの小説にも及んでいるように思える。

世界をゆるがした十日間〈上〉 (岩波文庫)  ツヴァイク全集〈10〉三人の自伝作家 (1974年)  チューリヒのレーニン (1977年)  

 これらの小説において、ツヴァイクの「封印列車」がベースとなり、様々に登場人物たちが接ぎ木されたかたちで、物語として変奏されていく。『チューリヒのレーニン』ではロシア革命からも抹殺されてしまった国際的フィクサーにして実業家のパルヴスが召喚され、その謎のような人物を浮かび上がらせようとしている。ソルジェニーツィンを継承し、セラーは『ペトログラード行封列車』において、暗号名をパルヴスとするドイツ社会主義者で富豪のアレクサンダー・ヘルマントを狂言廻しのような存在としている。そうした設定において、「封印列車」の物語の奥行とその錯綜するバックヤードを生々しくヴィヴィッドに描き出そうと試みているのだろう。

 このパルヴスなる人物に関して、『チューリヒのレーニン』の「訳者あとがき」において、ソルジェニーツィンのバルヴス「人名表」に加えて、江川卓が「パルヴス年譜」を提出し、レーニンの「封印列車」に不可欠であった、この人物のプロフィルとキャリアを伝えようとしている。このことだけを考えても、ツヴァイクのいうところの歴史上の「星の時間」は謎めいたものとして、現在でもそのようにしてあり続けていることになろう。

 レーニンの「封印列車」に寄り添ったパルヴスのことを考えると、ツヴァイクの「封印列車」やセラーの『ペトログラード行封印列車』にはフィンランドの駅でレーニンを迎えたスターリンの存在が不吉なイメージで描かれていたことにも思い至る。そういえば、セラーの小説が出される数年前に、楢山良昭の『スターリン暗殺計画』(徳間書店、一九七八年)も刊行されていたことに気づく。この作品こそは現代史とミステリーをリンクさせる先駆的役割を果たしたのではないだろうか。


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