出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1471 尾瀬敬止『労農露西亜の文化』と弘文館

 前回、富田武『日本人記者の観た赤いロシア』における同時代の「記録」をリストアップしてみた。そこには見えていないけれど、尾瀬敬止による『労農露西亜の文化』も入手している。同書もこのジャンルの一冊に加えることができよう。大正十年に神田区山本町の弘文館から刊行され、発行者は伊藤良治、B6判函入、上製二三二ページ、本体は赤の造本装幀である。出版社、発行者のいずれにしても、ここで初めて目にするし、弘文館も伊藤も出版史に見当たらない。その一方で、著者の尾瀬は『日本近代文学大事典』に立項されているので、それを引いてみる。

日本人記者の観た赤いロシア (岩波現代全書)

 尾瀬敬止 おせけいし 明治二二・一一・一八~昭和二七・一・五(1889~1952)ソビエト文化研究家。京都生れ。号は哀歌。筆名他和律。東京外語露語科卒。東京朝日新聞記者を経て、大正一〇年九月、月刊誌『露西亜芸術』を主宰、日露芸術協会の結成(大正一三・三)にも尽くした。主著に『労農露西亜の文化』(大正一〇・八 弘文館)『労農露西亜詩集』(大正一二・四 改造社)『革命露西亜の芸術』(大正一四・九 事業之日本社出版部)などがあり、当時「文芸戦線」「レフト」「文芸市場」等の誌上でも活躍。戦後も多数の啓蒙書を出している。

 (『労農ロシヤ詩集』) (『革命露西亜の芸術』)

 ここで尾瀬がやはり新聞記者で、しかも主著として『労農露西亜の文化』の上梓を通じて、月刊誌『露西亜芸術』を創刊し、その後の日露芸術協会の結成に結びついていったことがトレースされている。それは尾瀬が他の新聞記者と異なり、タイトルに象徴されているように、ロシア革命における文化の問題に注視し、コアとして言及を続けてきたことを示していよう。大正十年六月付の「自序」は次のように書き出されている。

 労農ロシヤは『世界の迷宮』である。迷宮の周囲には妖雲がたゞよひ、鮮血が流された。そして、三年と七ケ月を経過したが、密に閉じた扉は、漸くにして放たれやうとしてゐる。そこからは、果して何物が生れるであらう。ルナチャールスキーは言つた。「未だ聞か去りし偉大なる言葉」と。しかし、彼が讃嘆して止まぬ郷土を、「偉大にして不具者なるロシヤ」と呼んだのは、飢えと寒さの中で死んだと伝へられるアンドレーエフであつた。

 私は『近代出版史探索Ⅶ』1289の『エマ・ゴールドマン自伝』の訳者なので、ルナチャールスキーがロシア革命における文化政策の良心的存在であったこと、またアンドレーエフが『同Ⅱ』203の『七死刑囚物語』を書き、革命の暗部を描いたことを知っている。そして二人とも晩年は亡命者のように異国で客死していることも。さらに尾瀬がこれも『同Ⅵ』1200のメラジュコーフスキーの名前も揚げ、ボルシェヴィキ出現以前の革命史資料として、彼の長編『露西亜革命の萌芽より完成まで』を抄録しているのである。

  エマ・ゴールドマン自伝〈上〉   七死刑囚物語1

 その事実は尾瀬が革命後のロシアが「世界の迷宮」と化し、その周囲には「妖雲がたゞよひ、鮮血が流され」ている現実をメタファーとして伝えようとしているかのようだし、論考タイトルも挙げてみる。それらは「労農政府の文化政策」「フユーチユリズム」「新しい文壇の権威者」「『反抗』の歌ひ手」「ボリシェヰ―ズムと文壇」「作家の運命と出版物」「新しい教育の試み」「プロレタリアの為めの劇場」などである。

 これらの中でも、「『反抗』の歌ひ手」はマヤコフスキーと長詩『ズボンをはいた雲』を論じ、この自死した新しい革命詩人と作品へのきわめて早い言及だと思われる。また先に挙げなかったが、「晩年のクロポトキン」も尾瀬ならではの一編ではないだろうか。いってみれば、『労農露西亜の文化』の内実はその文化政策、文壇、作家、出版、教育、劇場と芝居を通じて浮かび上がるロシア革命の現実を透視しようとする試みとして提出されたと考えられる。

 また続けて尾瀬を編集兼発行人として創刊された『露西亜芸術』(露西亜芸術社)は『日本近代文学大事典』第五巻の「新聞・雑誌」に解題が見出され、『労農露西亜の文化』のコンセプトの延長線上に企画されたとわかる。それには『近代出版史探索Ⅳ』832の昇曙夢、米川正夫、『同』98の中村白葉、『同Ⅶ』1248の山内封介たちが参加し、ロシアの文学、芸術、音楽、演劇、哲学を総合的に紹介する目的で刊行され、日露芸術協会へともリンクしていったのである。

 このリトルマガジンは未見なのだが、尾瀬ならではの詩の翻訳と紹介にも力を注いだはずだ。これは『発禁本』(「別冊太陽」)で書影を見ているだけだけれど、昭和五年に『近代出版史探索Ⅱ』255の素人社書屋から尾瀬訳『革命ロシア詩集』が刊行され、発禁処分を受けている。おそらく同書にはマヤコフスキーの詩も収録されていたのではないだろうか。なお同書は「サウエート詩人選集」3としての刊行のようだが、何冊出されたのかは判明していない。 

発禁本―明治・大正・昭和・平成 (別冊太陽)   (『革命ロシア詩集』)

 そうした意味において、尾瀬の『労農露西亜の文化』は小さな本ではあるにしても、トータルな「文化」の側からロシア革命という「世界の迷宮」、及びそこに漂う「妖雲」と流された「鮮血」を透視しようと試みた一冊と見なせるのかもしれない。


[関連リンク]
 過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら