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出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1473 第一書房の『文藝年鑑』

 続けてジョン・リード『世界をゆるがした十日間』を始めとするロシア革命ルポルタージュを取り上げ、また日本人ジャーナリストによるレポートなどもリストアップしておいた。それらはロシア革命とソヴエトに関する出版が一つのトレンドでもあり、確たる分野として大正時代後半から成立され始めていたことを伝えていよう。そうした系譜上に翻訳刊行されたのが、『近代出版史探索Ⅴ』816の第一書房のジイド『ソヴエト旅行記』と『ソヴエト紀行修正』で、それらのベストセラーに近い売れ行きはジイドの時代であったにしても、長いロシア絡みの出版史がバックヤードになっていたと考えられる。

  世界をゆるがした十日間〈上〉 (岩波文庫)   

 その一方で第一書房はそれらのロシア物の出版社と異なり、当時の文芸書出版社の雄でもあり、多彩な書籍を刊行していた。それには意外なものもあるので、そのことに言及してみたい。拙稿「鷹野弥三郎、新秋出版社、『文藝年鑑』」(『日本近代文学館年誌 資料探索』16 所収)で、大正十三年の『文藝年鑑』は鷹野の営む新秋出版社が編纂し、二松堂から刊行されたことにふれた。それが昭和に入ると、文芸家協会編として新潮社や改造社に移り、昭和十一、十二年、十四年は第一書房がその刊行を担っている。

 (大正十三年)

 手元にあるのは一九三六年版=昭和十一年版だけだが、菊判函入で、その函には次のようなキャッチコピーが見える。「文藝年鑑は文芸が文化に関係あるあらゆる領域と交叉する十字路の役割を果し、その交渉の第一線に立つものである。あらゆる年鑑の中心となる綜合年鑑!!」と。しかも同書は文芸家協会の「年鑑編纂を代表する杉山平助氏とわが第一書房の出版方針」が合致したもので、「画期的な新年鑑」とされる。

 杉山が菊池寛に見出され、昭和初年に『文藝春秋』に匿名時評を連載し、文芸評論界で注目され、『東京朝日新聞』の学芸欄にも執筆し、活躍していたことは承知していた。だが昭和十年代に彼が『文藝年鑑』の編輯にも携わっていた事実は知らされていなかった。それに新潮社版や改造社版は未見だけれど、「画期的な新年鑑」と自ら称しているように、この第一書房版はきわめて斬新な試みだったと見受けられる。この『文藝年鑑』にしても、まさに第一書房の出版物に他ならないのである。

 それは函だけでなく、本体の鮮やかなオレンジ色の造本にも明らかで、装幀は誰かと思えば、川上澄生とある。ただ昭和戦前の他の『文藝年鑑』を見ていないので、装幀や造本以外に何が「画期的な新年鑑」の試みであるかは比較検証できない。しかし私も平成版『文藝年鑑』(2013年14年)には寄稿していることもあって、その装幀や造本に見合う構成の端正さからして、『文藝年鑑』のフォーマットはこの第一書房版で確立されたのではないかとの想像をたくましくしてしまう。その年の文学賞などの受賞者たち、会合、催し、物故者などの口絵写真に続く、第一部「記録」の大見出しの章を挙げてみる。

Ⅰ 文壇の概観
Ⅱ 文芸上の諸問題 (一九三五年)
Ⅲ 創作壇の一年
Ⅳ 思想界の動向
Ⅴ 詩、歌、俳壇の一年
Ⅵ 劇壇の一年
Ⅶ 映画界回顧
Ⅷ 資料

 これを少しばかり補足しておけば、Ⅰにおいて、一九三五年の日本、世界文学の概観をレポートしているのは『近代出版史探索Ⅲ』540の青野季吉、及び『近代出版史探索Ⅵ』1008などの伊藤整で、二人の昭和十一年における文壇ポジションがうかがわれる。Ⅱでは横光利一の「純粋小説論」や小林秀雄の「私小説論」とともに、「転向文学」や「実録文学」も取り上げられ、それに「長篇小説」「通俗小説」の問題にまで及んでいる。

 またⅢにはまず毎月の伊藤、青野、杉山などによる「創作月評」があり、さらに「長篇小説」は杉山、小林秀雄、勝本清一郎、「大衆文学の進展」は三上於菟吉、「探偵小説界」は水谷準が論じていて、昭和十年の文学トレンドが浮かび上がってくる。Ⅳの「思想界の動向」は戸坂潤、Ⅴの詩壇は春山行夫、Ⅵは秋田雨雀など、Ⅶは内田岐三雄がそれぞれ担当し、いずれも本探索で取り上げて来た人々が昭和十年代を迎え、各分野でそれなりの地位を確立したことを示唆している。

 第二部の「便覧」では「文芸団体」「学術・文化団体」「官庁、大学、図書館及博物館」といった文芸にまつわる団体とアクセス先が掲載され、それに加えて「出版関係法規」も収録されている。少し驚かされたのは帝大を中心とする十九大学の三ページの「大学教授一覧」も含まれていたことである。それは三ページに収まってしまう人数で、すでに明治大正を経て、昭和に入っても、戦前には大学教授も少なく、しかも男ばかりだし、彼らが特権階級にしてエリートだったことを教示している。

 それに関連して圧巻なのは、第三部の「文筆家総覧」である。函の文言を引けば、「これだけでも原稿紙六百枚、政治経済芸術、シネマ、新聞、文筆に関するあらゆる人士二千名を網羅した「非常な苦心を払つた編纂であるだけ、利用価値はおそらく無限であるだらう。早くいへば文化に関係ある限り、百貨店、ホテル、工場にも、この名簿だけは電話以上に必要である」のだ。

 「編輯後記」に「約言すれば、本年鑑が全文だ、全ヂァーナリズムにとり必要不可欠のものとなることを編纂の目的とした」と述べられているのは、第一にこの「文筆家総覧」を挙げるべきだからであろう。またそれから八十年以上が過ぎた近年においても、私もそうであるが、『文藝年鑑』を閲するのはこの「文筆家総覧」、現在は「便覧文化各界人名簿」であり、そのコンセプトが引き継がれていることになる。

 また「編集後記」には文芸家協会理事の杉山が責任編纂の立場にあるけれど、主として編纂に従ったのは田中西二郎と記されていた。田中といえば、私たちにとってメルヴィル『白鯨』、エミリー・ブロンテ『嵐が丘』(いずれも新潮文庫)の翻訳者であり、昭和十年代にはこのような『文藝年鑑』の仕事にも携わっていたことを知るのである。

  白鯨(上) (新潮文庫)    嵐が丘 上下 (新潮文庫)  


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