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古本夜話1477 第一書房と「戦時体制版」

 第一書房はバアル・バック『大地』三部作のベストセラー化と併走するように、昭和十二年の日中戦争の始まりと翌年の創業十五年を機として、「戦時体制版」を刊行していく。まずは昭和十三年十月に杉浦重剛謹撰『選集倫理御進講草案』、高神覚昇『般若心経講義』、山内霊林『禅学読本』、バアル・バック『大地』三部作、同『母の肖像』、ジイド『ソヴエト紀行修正』の八点が出版された。

  

 これらは四六版、軽綴軽装版、定価は七十八銭で、最終的に何冊出たのかは『第一書房長谷川巳之吉』の「戦時体制時代」にも記載がない。そこで同書所収の大久保久雄編「第一書房刊行図書目録」をたどってみると、十七年までの刊行として三十七冊があがっている。だがそれらは昭和十三年以前の初版の代わりに「戦時体制版」が記載されたり、また重複したりもしていて、やはり「戦時体制版」の点数の確認はできない。「同目録」が編まれたのは昭和五十九年であるから、すでに四十年近く前だと考えると、現在のインターネット環境を考慮に入れても、「戦時体制版」も含んだ第一書房の完全目録を編纂することは困難であるのかもしれない。
(日本エディタースクール出版部)はそのことを次のように記している。

第一書房長谷川巳之吉

 この「戦時体制版」のうちで、私が拾っているのは大川周明『日本二千六百年史』と後藤末雄『支那四千年史』の二冊で、前者は昭和十四年七月、後者は十五年十二月の刊行で、いずれも初刷三万部とある。それぞれ巻末には近刊も含めた「戦時体制版」が並び、復刊の『支那四千年史』を含めると、三十五冊を数えることができる。しかも先の「目録」には掲載されていない木村毅編『支那紀行』、田部重治『山と渓谷』、大田黒元雄『レコード音楽案内』、新居格編『支那在留日本人小学生綴方現地報告』なども見えていて、最終的には五十点近くに及んだのではないかと推測される。だがいずれも初版が五万部で、さらに版を重ねていて、どちらかといえば、「雑書」に分類できるはずなのに、探そうとすると難しい叢書、シリーズと化しているのだろう。その事実は大東亜戦争下における所謂「雑書」類の発見や収集の困難さをうかがわせている。

   支那在留 日本人小學生 綴方現地報告〈戰時體制版・昭和14年〉

 両書にはこれもまた同じように「巻末」に長谷川の「戦時体制版の宣言」が掲載され、次のように宣言されている。

 凡そ出版の事業たる一国文化のバロメタアを成すは言ふまでもありませんが、特に現下の如き戦時下の非常時局に当つては、その責任益々重大なるを自覚し、茲に物質経済の根幹を成す用紙統制に則ると共に、大局からの国策に順応 する新日本文化の創造に進んで協力寄与すべき決意愈ゝ固きを信じてやまない次第です。私は第一書房設立以来十五年、一意或る理想をもつて出版を続けて来たのでありますが、特に今日に於いて一層、良書出版の意義をその必要の大なるを思ひ、出版報国を第一義とする戦時体制版の刊行に邁進するに至つたのであります。

 この長谷川の現代日本出版界に関する根底的視座は、量と種類において世界の出版圏のひとつに数えられるにしても、その質から見れば、「名を大衆にかりる俗悪趣味横溢の娯楽雑誌や婦人読みもの類の跳梁跋扈」にすぎず、「一国文化の伸長にプラスするものとは考へられない」というものである。そして「大衆化とは徒らに大衆に阿ねることではなくして、実に名著をもつて大衆を引き挙げる事でなくてはならない」のだ。それが「戦時体制版」の出版の目的に他ならず、今日の日本人にとって「必要な万人必読の書を、精神の糧として供給する」ことをめざすのである。

 しかし時代の名著を選定することは難しいし、それが「戦時体制版」となれば、なおさらであろうし、実際に現在でも読まれている名著は数点しかない。ところがそこにはヒットラア『我が闘争』も選ばれてしまうのだ。『我が闘争』は春山行夫を中心とするアメリカ訳からのグループ翻訳とされ、これは未見だが、『セルパン』(昭和十四年六月号)に抄訳が掲載されたもので、十五年に「戦時体制版」として刊行するに当たって、『近代出版史探索Ⅳ』678などの室伏高信の名前を借りて出版したものであった。日独伊三国同盟が締結されたのは十五年九月で、確かに時宜を得た翻訳出版だった。またたちまちのうちに四十万部に達したと伝えられる。

  

 だがこの企画出版はモダニスト春山の陥穽だったと見なされ、長谷川をして戦後の公職追放指定というGHQの処置にもリンクしていったことになろう。それはともかく、気になるのは「戦時体制版」と日本出版文化協会創立と国策取次の日配との関係である。日配は十六年から一元配給をめざす新体制に入り、すでに用紙統制も始まっていた。先の「同目録」を見ると、十六年の「戦時体制版」は下村海南を『来るべき日本』、レイモント『農民』第四部、佐佐木信綱謹注『明治天皇御集謹解』、陶山務『吉田松陰の精神』、パアル・バック『母の生活』、上村忠治『詩人を通じての支那文化』、三井光彌『父親としてのゲーテ』、弓館芳夫訳『三国志』、山辺習学『わが親鸞』と九冊出ていた。ところが十七年になると、四月の小泉八雲『神国日本』の一冊だけになってしまう。

 明治天皇御集謹解 (1941年)   三國志 三国志 弓館芳夫訳 第一書房   

 それは日配を通じての「戦時体制版」初版三万部の配本が困難になってきたこと、それに用紙統制による紙の確保の問題もせり上がってきたことを浮かび上がらせているように思われる。第一書房の廃業は昭和十九年で、すでに八十年前だし、長谷川郁夫の『美酒革嚢 第一書房・長谷川巳之吉』(河出書房新社)は出されているものの、第一書房に関しては謎が多すぎる。その一端を『近代出版史探索Ⅵ』1137で書いているけれど、それは氷山の一角だと見なせよう。

美酒と革嚢 第一書房・長谷川巳之吉  
 

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