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古本夜話1476 アンドレ・マロウ、新居格訳『熱風』

 最近になって浜松の時代舎で、新居格の翻訳をもう一冊入手した。それは『近代出版史探索Ⅴ』892で書名を挙げておいたアンドレ・マロウの『熱風』で、昭和五年に『近代出版史探索Ⅱ』365などの先進社から刊行されている。

 『熱風』はマロウという表記、及び「革命支那の小説」とあるキャプションからうかがわれるように、マルローの最初の翻訳である。マルローは一九二五年に中国へ渡り、共産党とコラボしていた国民党の広東政権に関わったが、二七年の上海における国民党の共産党弾圧後に帰国し、二八年広東革命を背景とする『征服者』を出版する。それが『熱風』として翻訳されたのである。

 これも先の拙稿で既述しているが、マルローの盟友といえる小松清による『征服者』の翻訳は昭和九年の改造社から始まり、第一書房の『王道』(昭和十一年)、『近代出版史探索Ⅴ』893のやはり改造社の『上海の嵐』(同十三年)へと続いていくことを考えれば、英訳からの重訳であるにしても、きわめて早いマルローの翻訳だったことになろう。それはマルローの生の不条理と死の観念をコアとする文学への注視というよりも、『熱風』という支那の「材料と体験」に基づく作品への関心によっていると見なしていい。新居もその「訳者序」で、次のように述べている。

 (『王道』)

 支那に新しく生動せる革命的気流とその交錯とを溌溂たる筆致で描いたものが本書である。作中コムミユニスト、テロリスト、アナキスト、サンデカリスト反動軍閥が入り交ぢつて活躍する。総罷業あり、市街戦あり、帝国主義特に英国の資本主義にたいする目覚めた支那の抗争があつて、それは宛然フイルムの開展するが如く興味の津々たるものがある。

 新居はこの「興味の津々たる」一冊を昭和四年上海南京路のケリー書店で求め、夏から秋にかけての旅中で読み、支那の時局と照応するので、帰国して翻訳を志したとも書いている。和巻耿介『評伝新居格』(文治堂書店)所収の「年譜、主要著書目録」を確認してみると、昭和四年に上海、大連に旅行とあるが、『熱風』の翻訳は挙げられていない。

評伝 新居格 (1991年) (文治堂書店) [古書]

 それもあって、ここでは『熱風』の作品には立ち入らず、まずケリー書店のことにふれてみる。この書店は新居が滞在した内山書店と同じく、近代文学、出版史と無縁ではないからだ。内山書店に関しては拙稿「上海の内山書店」(『書店の近代』所収)を参照されたい。『近代出版史探索Ⅶ』1375などで、「魔都」としての上海に言及してきたが、ケリー書店に関しては取り上げていない。

書店の近代―本が輝いていた時代 (平凡社新書)

 この書店は谷崎潤一郎の『蓼喰う虫』(岩波文庫)にも出てきて、上海帰りの高夏が主人公の斯波に頼まれ、『アラビアンナイト』を購入してきたことが語られている。それは上海のケリー・ウォルシュに掛け合い、イギリスから取り寄せた稀覯本で、全十七巻もある「オブシーン・ブック」だった。そのために税関に見つからないようにトランクに押しこみ、持ってきたというエピソードが披露されている。このエピソードは上海のケリー書店が新居や谷崎たちにとって重宝な洋書店であったことを物語っていよう。戦前の写真集でケリー書店を目にしたことがあり、探してみたが出てこない。また『近代出版史探索Ⅳ』652で明治末期に横浜にも洋書店KELLY&WALSHが存在し、ブラヴァツキーや神智学の書籍を取り扱っていた事実にふれているが、こちらの写真も未見のままである。

蓼喰う虫 (岩波文庫 緑 55-1)

 ところで新居の「主要著書目録」に『熱風』が挙げられていないのは、それが代訳者によっているからではないだろうか。新居は本間立也と門馬驍の名前を挙げ、「二君が一方ならぬ助力を与えて下すつた」と謝辞を捧げている。新居の年譜からすれば、昭和四、五年は多くの翻訳と著書を相次いで刊行し、B6判三六五ページの翻訳の時間の捻出は難しかったと思われる。

 したがって実際には本間と門馬が翻訳を担い、それを新居の名前で刊行した。それは奥付の検印紙に新居だけ捺印があることにも明らかだし、二人はそれなりの下訳料を受け取ったと推測される。ところが本間と門馬の明確なプロフィルはつかめないが、本間は『近代出版史探索Ⅴ』893の「大陸文学叢書」の訳者、門馬は満鉄調査部関係者だと思われる。また和巻の『評伝新居格』の伝えるところによれば、前々回の『大地』の翻訳料をめぐって、代訳者の深沢正策との間にトラブルが生じたようなのだ。そのような事態が本間、門馬との間にも起きたのかもしれないし、それらに加えて、重訳の版権問題、昭和九年の改造社からの小松清によるマルローお墨付きの仏訳も刊行されたことで、先進社版『熱風』は絶版へと追いやられたのではないだろうか。

(戦時体制版)

 いずれにしても確認を得ていないのだが、そうした事象が重なったことで、本邦初のマルローの翻訳だったにもかかわらず、新居たちと同じく忘れ去られてしまったように思われる。


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