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古本夜話1491 『四季』の「萩原朔太郎追悼号」と四季社

 萩原朔太郎や第一書房と関係の深い詩のリトルマガジンがある。それは『四季』で昭和十七年には「萩原朔太郎追悼号」(第六十七号)を発行している。この「追悼号」は立原道造、中原中也、辻野久憲も合わせ、昭和五十二年に冬至書房新社によって、「近代文芸復刻叢刊」の『四季』の「追悼号四輯」として、復刻されている。

   四季 萩原朔太郎追悼号 復刻版  

 『四季』は第一、第二次に分類されるが、ここでは各「追悼号」が含まれている第二次に言及してみる。それでもその前史に少しだけふれておけば、第一次は堀辰雄編集で、春山行夫の『詩と詩論』、その改題『文学』の事実上の季刊詩文集として、昭和八年に二冊が出されている。第二次は昭和九年から十九年にかけての八十一冊で、編集は三好達治、丸山薫、堀辰雄が担い、いずれもが『詩と詩論』同人、もしくは寄稿者だった。第一書房に関係づけると、『萩原朔太郎詩集』に続いて、三好は昭和五年に処女詩集『測量船』、丸山は同七年に同じく『帆・ランプ・鷗』を上梓している。

 (『萩原朔太郎詩集』)(『帆・ランプ・鷗』)

 しかし『四季』は昭和十一年の第十五号から同人を増やし、立原道造、津村信夫の他に、萩原、竹中郁、田中克己、中原中也、室生犀星、竹内俊郎、阪本越郎なども加わり、昭和十四年の第五十号まで続き、そこで一年休刊する。『四季』における萩原や室生の参加はモダニズムが二人の抒情詩の伝統とリンクしたことを告げていよう。これが第二次『四季』の前期、以後が後期となる。

 したがって「萩原朔太郎追悼号」は第二次『四季』の後期に属する。それは室生の「供物」という次の詩によって始まっている。これはここでしか見られないかもしれないので引いておく。
 「はらがへる/死んだきみのはらがへる/いくら供えても/一向供物はへらない。/酒をぶつかけても/君はおこらない。/けふも僕の腹はへる。/だが、君のはらはへらない。」
 そして先に挙げた人々への追悼が語られ、意外にも『四季』には加わっていなかったと思われる堀口大学の「追悼記」も寄せられているので、それを紹介してみよう。

 君の名を僕が初めて知つたのは、『月に吠える』が出た時だつた。僕が二度目の外遊から三年ぶりで日本へ帰つて、『昨日の花』を出版した当時のことだつた。神保町の現在岩波の売店のあるあたりにあつた新本屋(しんほんや)の店先で、君のあの処女詩集、今日から思へば、日本に於ける現代抒情詩の処女詩集とも言へる君の詩集を見出して、何も知らずに求めて帰つたのであつた。その頃、僕も、自分がそれまでの外遊中に書きためた詩を集めて出版する心算だつたので、何かの参考にでもなるかも知れない位の軽い気持で求めたのであつたが、家へかへつて一読するに及んで、その自由な言葉の使驅と、青ざめた病気にまで鋭い感覚に一驚を喫しつつ、あの、青竹の詩や、てふ、てふの詩を異様な心をどりと共に読んだものであつた。

 大正時代の神田の書店においては読者が自費出版の詩集と出会うというシーンが生じていたのだ。この堀口の回想を読み、近代文学館復刻の『月に吠える』を取り出してみる。北原白秋以の「序」、室生犀星の「跋」、装幀と挿絵は故田中恭吉と恩地幸四郎によるもので、発行所は感情詩社と白日社出版部である。発行人は感情詩社の室生照道=犀星、白日社出版部はやはり「孤掲な詩人」を書いている前田夕暮が主催していた。五百部の自費出版に他ならない。

月に吠える―詩集 復元版 (1965年) (『月に吠える』復刻版)

 堀口はふれていないが、『月に吠える』は刊行前に内務省警保局からの風俗壊乱に該当するので、発売禁止の内達を受けたこともあって、書店配本に関しては「愛憐」と「恋を愛する人」の二篇(一〇三~一〇八ページ)が削除されていた。復刻版は完本だが、おそらく堀口が求めた一冊は削除本だったと考えられる。『月に吠える』は出版そのものが事件であったともいえるけれど、その中には「とほい空でぴすとるが鳴る。」と始まる「殺人事件」も収録されていたのである。だが堀口は『月に吠える』を購うことを通じて、『近代出版史探索Ⅵ』1165の『月光とピエロ』を萩原に献本し、前橋とブラジルの間でのコレスポンダンスが始まったという。そのような詩集をめぐる時代もあったことを記憶すべきだろう。

(『月光とピエロ』)

 詩集といえば、四季社は三好達治『閒花集』『山果集』、室生犀星『抒情小曲集』、竹村俊郎『鴉の歌』、丸山薫『幼年』、津村信夫『愛する神の歌』、立原道造『暁と夕の詩』を刊行していて、創作集としては横光利一『馬車』、小林秀雄『一つの脳髄』、堀辰雄『麦藁帽子』、永井龍男『絵本』も挙がっている。当然のことながら、四季社は紛れもなく出版社でもあったのだ。一冊も見ていないのは残念というしかないけれども。

 (『絵本』)

 「追悼号四輯」の編輯兼発行者はいずれも日下部雄一で、この人物が長きにわたって立原命名による『四季』と四季社を支えてきたことになろうが、日下部のプロフィルは河出書房出身ということしか判明していない。またそれ以外に、『日本近代文学大事典』の索引も含め、近代出版史、近代文学史のいずれにも、その名前は残されていないである。


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