かなり長く第一書房に関して書いてきたけれど、それはいつの間にか本がたまってしまったことにもよる。そうしたことは改造社や三笠書房にもいえるので、やはり続けて取り上げていきたいと思う。
その前に残った第一書房の春山行夫『詩の研究』と萩原朔太郎『氷島』にもふれておきたい。前者は昭和六年の厚生閣版の再刊で、同十一年の刊行である。「新思想芸術叢書」と銘打たれ、裏表紙に小さく、大田黒元雄、川端康成、水原秋桜子の続刊が予告されていて、それらは川端の『小説の研究』、水原は『現代俳句論』として刊行されたのではないだろうか。萩原の『氷島』は昭和九年の出版だが、こちらは近代文学館の復刻である。
(第一書房) (厚生閣) (『現代俳句論』)
なぜこの二冊に注視したかというと、春山と萩原は昭和四年頃から新詩精神(エスプリ・ヌーヴォー)の問題をめぐって論争を続けたし、『詩の研究』と『氷島』は二人の論争のコアを示すものであったからだ。それもあって、第一書房における春山と萩原の呉越同舟の印象も生じていたのである。ところが第一書房においては春山が昭和十年から『セルパン』の編集に携わることになったからでもあろうが、同九年の『ジョイス中心の文学運動』、十一年には『花とパイプ』『詩の研究』、十五年には『新しき詩論』を続けて出している。
それは萩原も同様であり、タイトルを挙げてみよう。
1 | 『萩原朔太郎詩集』 | 昭和三年 |
2 | 『詩の原理』 | 昭和三年 |
3 | 『虚妄の正義』 | 昭和四年 |
4 | 『恋愛名歌集』 | 昭和六年 |
5 | 『氷島』 | 昭和九年 |
6 | 『純正詩論』 | 昭和十年 |
7 | 『絶望の逃走』 | 昭和十年 |
8 | 『郷愁の詩人与謝蕪村』 | 昭和十一年 |
9 | 『廊下と室房』 | 昭和十一年 |
10 | 『詩人の宿命』 | 昭和十二年 |
『氷島』の初版は千部との記載があることからすれば、春山の『詩の研究』が千五百部だったことを考慮に入れると、萩原の他の詩論、アフォリズム集、エッセイ集は二千部ほどではないかと推測される。しかも十年間に十冊刊行しているわけだから、萩原と第一書房の関係はとても密接なものだったと考えられる。しかも『新潮文学アルバム』(「新潮文学アルバム」)の初版本書影を見ると、3、5、6、7、9の八冊は自装であり、彼も長谷川巳之吉の「装幀美」の影響を受けていたことになろう。版画荘版『青猫』と相似している『氷島』の装幀はウエブスターの『スペリング独案内』(双玉堂)、もしくは父親の所蔵していた医学書が範となったのではないかとされている。
萩原に関しては、『近代出版史探索Ⅱ』370などでふれているが、出版社との関係はいまひとつわからないところがあり、それは死後の小学館の『萩原朔太郎全集』についても同様である。第一書房とは長谷川の関係にしても、『第一書房長谷川巳之吉』において、福田清人が「長谷川さんと第一書房の思い出」でわずかに語っているだけだ。それも「詩人といえば、萩原朔太郎は、原稿ができあがると、その束を抱いて社に見えた。それは格別依頼があったかどうか知らないが、すぐ出版の運びとなった」というものだ。長谷川にしても、昭和三年刊行の『萩原朔太郎詩集』が「装幀美」をきわめたと公言しているにもかかわらず、萩原への言及は見えていない。
しかし萩原の出版点数は十冊に及び、単行本としてそれは堀口大学、大田黒元雄、土田杏村に続くものであろう。それに福田の証言から考えれば、萩原の著書は長谷川が担当していたはずで、そうした事実からすれば、創業出版の『法城を護る人々』の松岡譲、パトロンの片山廣子と大田黒元雄、堀口大学が第一書房の四天王とされているけれども、それに準ずる存在として萩原も位置づけられるように思われる。
だがどうしてなのか、嶋岡晨『伝記萩原朔太郎』(春秋社)や磯田光一『萩原朔太郎』にも、それらの関係の痕跡はたどれない。昭和十年代に入っての萩原の、保田与重郎の『日本浪曼派』、中河与一の『文芸世代』などへの接近、昭和十二、三年の続けての白水社による『無からの抗争』『日本への回帰』の刊行の影響も考えられよう。後者における「僕等は西洋的なる知性を経て、日本的なものの探求に帰つて来た。その巡歴の日は寒くして悲しかつた」という言葉は第一書房のモダニズムを否定しているかのようでもあり、第一書房の廃業はあるにしても、それが小学館の『萩原朔太郎全集』へとリンクしていったように思われる。
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