出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1496 湯川松次郎と『新撰童話坪田譲治集』

 前回の「新詩叢書」の版元が大阪の湯川弘文社であることにふれておいたが、どうしてこのような詩のシリーズを刊行するに至ったのかは詳らかでない。もっともそれは湯川弘文社に限らず、東京に支店を設けた大阪の多くの出版社に共通していることであるし、その例として本書1409で錦城出版社を取り上げてもいる。

 しかし湯川弘文社の場合、創業者の湯川松次郎は『出版人物事典』にも立項されているし、『近代出版史探索Ⅱ』280で取り上げた大阪出版史の貴重な文献『上方の出版と文化』(上方出版文化会、昭和三年)を著わしてもいるので、まずは前者の立項を紹介してみる。

出版人物事典: 明治-平成物故出版人

湯川松次郎 ゆかわ・まつじろう]一八八五~一九七一(明治一八~昭和四六)弘文社創業者。和歌山生れ。一三歳で大阪の小谷書店に入店、一九歳で大阪東区に書籍小売店を開業。一九〇九年(明治四二)明文館の称号で出版業を興す。昭和初年創刊の『美久仁文庫』は一時、『立川文庫』の人気を奪う勢いだったという。三〇年(昭和五)湯川弘文社(学習社)と改め、一般書・参考書・教科書を出版、三二年(昭和七)刊の佐佐木信綱・武田祐吉の『国語読本』(中等教科書)は著名であった。戦中・戦後にかけて藤沢桓夫、太宰治、吉井勇などの文芸書も多数出版した。日本書籍出版協会相談役、大阪出版協会相談役などをつとめた。『上方の出版と文化』の著書がある。

 これに湯川自身が語っている『上方の出版と文化』の一節を重ねてみれば、さらに彼の出版人としてのプロフィルがリアルで詳細になる。そこでその「自序」の部分も引いておく。


 背負いの本屋から小売屋、小間屋、そして赤本出版から雑誌・教科書・文学書、自然科学・人文科学・小説・参考書と数千種に亙る何千万冊になるかも知れぬ書籍を社会へ送り出し、物心ついて書籍屋一筋に本と共に生き本を出版することを唯一の楽しみに六十余年の年月を多忙の中に過ごして来た(後略)。

 この述懐をイントロダクションとして、湯川は「上方の出版文化史」を語り、ここでしかお目にかかれない大阪書籍業界人物物語」と「出版業者の面影」を描いていく。だがそこでは自らの湯川弘文社と出版に関しては言及されておらず、コンクリートに文学書や小説などの書名が記されているわけではない。湯川の先の立項や「上方の出版文化史」にも述べられていないけれど、実は児童書も出版され、その一冊が手元にある。それは昭和十四年の『新撰童話坪田譲治集』で、架蔵しているのはほるぷ出版「名著複刻日本児童文学館」の一冊だ。

 

 その奥付に『新撰童話坪田譲治集』は昭和十三年十二月発行、同十四年九月第三版との記載が見えているのだが、同書の扉下に湯川弘文社名で、本書は以前に『をどる魚』として刊行されたものの改題改装だという断わりが付されているように、同社の既刊書のリニューアル出版ということになる。そこで『名著複刻日本児童文学館第二集解説』を繰ってみると、『をどる魚』は双書「日の丸標準童話」十二冊のうちの一冊として刊行されたもので、それは坪田の「あとがき」に当たる「小松原米造君にさゝぐ」が昭和十年十二月付で記されていることからすれば、十一年初頭に出版されていたと推測される。ちなみにタイトルは冒頭の作品「をどる魚」から取られ、装幀、挿絵は深沢紅子、深沢省三によるもので、『新撰童話坪田譲治集』は内容、装幀、挿絵もそのまま踏襲し、判型を変えての刊行とされている。

 さてここで考えてみたいのはその判型の変化をめぐってである。それは四六倍判函入、上製二四七ページで、上質な紙を使っているで、厚さも二センチを超え、児童書というよりも、豪華本仕立ての文芸書といった印象が強い。それでも紙型を再利用していることもあってか定価は一円八十銭とあるが、児童書としては高定価であることはいうまでもない。そうした事柄に加えて、この大判の児童書がどこで売られていたのか気になってしまう。それはこの判型の場合、大型書店は少なかったし、児童書部門を設けている書店も同様だったし、現在と異なり、児童書専門書店もほとんどなかったと考えられるからだ。

 また湯川弘文社は大阪の版元であり、元版の『をどる魚』はおそらく菊判の一冊のはずだ。その一冊だけを『新撰童話坪田譲治集』として大判化したのはどのような流通販売イノベーションが生じていたのであろうか。神田小川町に東京支店を設けたことと不可分のはずだ。そのことを考えるために、もう一編続けて書いてみたい。

 なお坪田の『子供の四季』(新潮社、昭和十三年)に関してはかつて「坪田譲治と馬込文化村」(『古本探究Ⅱ』所収)で言及していることを付記しておく。

 古本探究 2


 [関連リンク]
 過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら