前回、『詩と詩論』同人の竹中郁が実際にパリのシェイクスピア・アンド・カンパニイ書店を訪れていたことを既述しておいた。それは昭和三年から四年にかけて、洋画家の小磯良平と渡欧し、パリに滞在し、ジャン・コクトーとも会っていた頃だと思われる。
その帰国後に上梓したエスプリ・ヌーヴォーの輝かしい業績とされる詩集『象牙海岸』(第一書房、昭和七年)は未見だけれど、戦時下に刊行された『龍骨』を入手している。例によって浜松の時代舎で見つけた一冊で、戦時下の詩集と思われないほどの鮮やかな紋様の装幀となっている。それはこの詩集の一章が「首里逍遥」と題されていることから類推すると、沖縄の紋様ではないかと考えられる。
この『龍骨』はB6判上製、一八〇ページ、頒価一円五十銭、背の下の部分に「新詩叢書」12とあるように、竹内自身が企画編集したもので、この「叢書」は『龍骨』と同じフォーマットで刊行されたと見なせよう。版元は大阪の湯川弘文社である。奥付裏に次のようなコピーが謳われている。「詩人のこのたびの大戦にいち早く感応してその筆を鋭くせる、他の文芸分野にその比をみず。又その朗読の気運大いに世に起りて詩集の翹望せらるる今に優る時なく、ここに本邦中堅詩人の詩集を蒐めて新詩叢書となす」と。おそらく竹中の手になるものであろう。そしてそのリストが挙げられているのでこれらも示す。
1 | 竹村俊郎 | 『麁草(あらくさ)』 |
2 | 岩佐東一郎 | 『二十四時』 |
3 | 城左門 | 『秋風秘抄』 |
4 | 笹澤美明 | 『海市帖』 |
5 | 小野十三郎 | 『風景詩抄 |
6 | 岡崎清一郎 | 『夏館』 |
7 | 安藤一郎 | 『静かなる炎』 |
8 | 村野四郎 | 『珊瑚の鞭』 |
9 | 阪本越郎 | 『益良夫』 |
10 | 津村信夫 | 『或る遍歴から』 |
11 | 竹中郁 | 『龍骨』 |
12 | 安西冬衛 | 『大学の留守』 |
13 | 中山省三郎 | 『豹紋蝶』 |
14 | 近藤東 | 『紙ノ薔薇』 |
15 | 田中冬二 | 『菽麦集』 |
16 | 蔵原伸二郎 | 『天日の子ら』 |
1 | 7福原清 | 『催眠歌』 |
(『麁草』)(『菽麦集』)
ナンバーは便宜的にふったものであり、『龍骨』がその背表示によれば、12であることを先述したが、ここでは11になってしまう。そこで念のために『日本近代文学大事典』第六巻所収の「叢書・文学全集・合著集総覧」を繰ってみると、刊行順は異なるが、昭和十八年から十九年にかけて全冊が出されている。ここでも『龍骨』11が変わっていないのは、その前に丸山薫詩集が予定され、未刊となったことによるのだろう。
ただ詩人たちも昭和十八、十九年という敗戦の気配が漂い始め、B29の空襲が現実化しようとする逼迫する戦時下にあって、詩を書きあぐねていた感も拭えない。それは竹中にしても同様で、最初の章の「一刹那」の三番目の詩「七月炎天」には次のような言葉が見える。
三月のあいひだに私は
四つの詩を書くのがやつとだつた
しかし又 詩を書く人間も要るのだと
強い太陽を吸つては刻々のびる稲の姿を
帰りの汽車の窓から見やりながら
ひとり秘かに云ひきかせた稲はそだつ 国のちから
みいくさは仇を討つ 国のちから
小さな机に凭れて私はつつましく書く 国のちからの一部分
残念ながら「新詩叢書」は『龍骨』しか目を通していないけれど、他の詩集にしても、「国のちからの一部分」のような詩のかたちを表象していたのではないだろうか。それにもかかわらず、戦争末期という状況下で「新詩叢書」はほぼ全点が刊行されたのである。これは本探索でも繰り返し指摘してきたように、昭和十六年に国策取次の日配が「出版物は紙の弾丸だ!」というスローガンを掲げ、営業を開始している。そして海外の植民地も含めた一元配給を実現させ、十八年からは書籍の買切制を導入していった。
「新詩叢書」は昭和十八年から刊行され始めているので、ほぼこの日配の買切制とパラレルに出されたことになる。そのために戦時下において、「本邦中堅詩人」ですら初版二千部が出版できたのであり、詩人たちには三百円の印税がもたらされたことになろう。それは詩人ばかりでなく作家たちも同様で、日配下の一元配給システムと買切制は、同じく文芸出版社にも多大な利益をもたらしたのである。
それは本探索でもしばしば取り上げ言及してきた第一書房、新潮社、河出書房の詩集や叢書にも当てはまるもので、岩波書店においたってはその渦中において、戦時立法ともいうべき版元としての買切制を導入し、今に至っていることになろう。このような戦時下における翻訳も含めた文芸、人文書出版の隆盛をベースとして、戦後の詩書出版も続いていったと考えられよう。
なおこの一文を脱稿後、しばらくして同じく浜松の時代舎で、10の津田信夫『或る遍歴から』も入手した。この詩集には言及しないけれど、装幀はやはり沖縄の紋様とおぼしきもので、竹内によると思われるカバー装が「新詩叢書」に共通して使われていたことをあらためて教えられた次第だ。
(『或る遍歴から』)
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