出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1504 竹内てるよ『美しき朝』、神谷暢、渓文社『近代学校』

 前回を書いた後、またしても浜松の時代舎で竹内てるよのエッセイや日記も併録した詩集『美しき朝』を見つけたのである。B6判並製ながら、小倉遊亀による装幀は竹内も謝辞をしたためているように、鮮やかな紅椿が描かれ、戦時下の一冊とは思われない。版元は明治美術研究所で、昭和十八年四月初版、六月再版六千部、定価二円三十銭とあり、初版と合わせれば、刊行部数は一万部を超えているのではないだろうか。

(『美しき朝』)

 竹内はその「跋」で、『美しき朝』は『静かなる愛』『生命の歌』(いずれも第一書房)に続くものであり、「この集をみていたゞきますことは、わたしのよろこびとするところのもの」と記している。先のふたつの詩集は未見だが、アナキズム系詩人として出発した彼女が、すでに平明な人生的詩風 へと移行したことを示唆している。それは『美しき朝』の「序」の「生きたるは 一つの責務/正しく死せむための 一つの証(あかし)/正しき死にあつてのみ/いかにして いのちを惜しまむ」という詩句にも明らかだ。

 

 そうした詩の変化を通じて、竹内は初版、重版合わせれば、一万部以上が売れるという人気のある女性詩人となっていったように思われる。竹内自身にしても、その「跋」で「各地からお手紙を下さる方々に」、日常生活の報告をしているし、私が入手した一冊の巻末に、「昭和十八年八月求む」と女性の署名があったことも、竹内と読者のコレスポンダンス をうかがわせている。

 そこで気になるのは竹内の出発点とターニングポイントに関してである。前回既述しておいたように、彼女は草野心平の『銅鑼』や秋山清の『弾道』などにアナキスチックな詩を発表し、昭和三年から九年までアナキズム思想をベースとする渓文社を設立している。そのパートナーは神谷暢である。彼は『日本アナキズム運動人名事典』に立項が見出せるし、渓文社の出版物も挙げられているので、渓文社の概要と出版物も挙げてみる。

日本アナキズム運動人名事典

 神谷は明治三十八年東京生まれで、竹内と同じく『銅鑼』などに詩を発表し、アナキズム出版社として渓文社を設立し、竹内の処女詩集の増補再版『叛く』などを刊行していく。彼は無産派の川崎市会議員の経営する川崎新聞社で印刷技術を習得し、詩人仲間が寄付した極小の印刷機と一字ずつ買い集めた活字により、「われわれの出版物はわれわれの手でつくろう」という主張のもとで、出版を行なった。その呼びかけに応じ、全国から支援があったとされる。その出版物を判明した限りだが、挙げてみる。

1 竹内てるよ詩集 『叛く』
2 草野心平詩集 『明日は天気だ』
3 中浜哲詩集 『黒パン党宣言』
4 萩原恭次郎詩集 『断片』
5 『アナーキズム文献出版年報』
6 草野心平訳 『サッコとヴァンゼッチの手紙』
7 坂本遼詩集 『たんぽぽ』
8 三野混沌詩集 『ここの主人は誰なのかわからない』
9 マラテスタ 『サンジカリズム論』
10 堀江末男小説集 『日記』
11 フランシスコ・フェレル 『近代学校』


  

 これらのうちの3、7、13は発禁処分を受けたとされる。私の所持しているのは11の『近代学校』で、もちろん発禁の渓文社版ではなく、前回記しておいたように、創樹社が昭和五十五年に復刻したものだ。それは『近代出版史探索Ⅶ』1289の『エマ・ゴールドマン自伝』の翻訳に際し、参考資料として読むべき一冊に数えられたからである。『同自伝』には「フランシスコ・フェレルを顕彰する」という一節が置かれ、フェレルがスペインで百を超える近代学校を創設し、ローマ教会の教義や権威から解放する試みに挑んだことが述べられていた。それに対し教会と国家は陰謀をめぐらし、フェレルがスペイン王殺害の企てに関わっていたという冤罪をでっち挙げ、彼を逮捕し、死刑を宣告し、一九〇九年に銃殺刑に処したのだ。フェレルの最後の言葉は「近代学校よ、永遠なれ!」というものだった。

近代学校―その起源と理想 (1980年) (創樹選書〈7〉) (創樹社版)  エマ・ゴ-ルドマン自伝 (上) エマ・ゴールドマン自伝 下

 エマはニューヨークのフェレルの追悼集会に加わり、翌年には大逆事件の死刑判決に対する抗議キャンペーンを組織している。これらのことから、フェレルの刑死と大逆事件はともに、東西の二大冤罪事件としてアナキズム史の中で語り継がれていったことを教えられた。それが『エマ・ゴールドマン自伝』におけるエマたちのフェレル追悼集会や大逆事件死刑抗議キャンペーンも大きく作用していると実感したのである。

 渓文社によるフェレルの『近代学校』のその死からほぼ二十年後の翻訳出版は昭和八年ということになるのだが、よくぞ刊行したとオマージュを捧げるべきであろう。詩集を主とする小版元にとって、翻訳出版は活字の組みからして困難を伴ったと思われる。またそれらの出版物は取次・書店という近代出版流通システムに依存するのではなく、読者への直接販売によっていたと推測できるので、生産流通販売も渓文社自らが担わなければならなかったと考えられるからだ。こうした出版活動は昭和九年まで続いたが、同年に渓文社は消滅したようで、翌年に神谷も無政府共産党事件で検挙され、戦後も含めてその行方は定かでない。

 一方の渓文社のパートナーだった竹内てるよがアナキズムから離脱し、平明な人生的詩風 の女流詩人として昭和十年代にはしかるべき人気を博していたことに比べ、神谷はひっそりと消えてしまった感が強い。そこに昭和十年代の出版の力学と詩集の在り方の問題も秘められているのかもしれない。


 [関連リンク]
 過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら