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古本夜話1506 宝文館と山宮允『英米新詩選』

 以前から山宮允を取り上げなければならないと思っていたのだが、彼の主たる著作や翻訳を入手するに至らず、言及してこなかった。それらを古本屋で見出せなかったのもひとつの要因ではあるのだが。

 それでも前回、山宮と川路柳虹が詩話会の提唱者で、大正時代の詩のムーブメントに大きな役割を果たしていたこと、及び山宮の主著ではないが、『英米新詩選』という英米詩の対訳本を購入したばかりなので、ここで一編を草しておきたい。その前に『日本近代文学大事典』の山宮の立項の前半を挙げてみる。

 山宮允 さんぐうまこと 明治二五・四・一九~昭和四二・一・二二(1802~1967)詩人、英文学者。山形市の生れ。威一の三男。別名虚実庵主人。明治四二年九月一高理乙に入学、同級生の土屋文明を通じてアララギの月次歌会に出席、また豊島与志雄らとともに文芸部委員をつとめた。大正元年九月東京帝大文科大学英文科に入学、在学中三木露風らの未来社に参加、三年二月刊の機関誌「未来」第一集に詩とイェイツの評論の翻訳を発表、同年六月刊の第二集にブレイクの訳詩を発表した。また三年二月に創刊された第三次「新思潮」の同人となり、評論やイェイツ、ブレイクの翻訳を発表した。四年七月東大英文科を卒業。六年一一月川路柳紅らとはかって詩話会をおこし、七月一一日評論集『詩文研究』を建文館より刊行、八年五月六高教授となり岡山に赴任した。一一年三月アルス『泰西名詩選』の一冊として『ブレイク選集』を刊行、同月鈴蘭社同人とともに日本近代詩書展覧会ならびに講演会を東京朝日新聞社で開催、一一月『近代詩書総覧』を近代文明社より刊行した。一四年文部省在外研究員となり四月出発、一五年一一月帰任。(後略)
(『ブレイク選集』)

 山宮の立項はまだこの倍近くの二段に及び、彼が戦後にあっても、詩壇の重要人物だったことがうかがわれる。それは昭和二十年代から四十年代にかけての三次にわたる『日本現代詩大系』(全十巻、河出書房)の編纂に携わったことも大きく影響しているのだろう。また立項をその半分で終えたのは、取り上げる『英米新詩選』の刊行が六高赴任後の大正十二年二月で、文部省在外研究員として派遣直前に出版されているからである。その版元は宝文館で、裏表紙にも第六高教授編『評註沙翁四大悲劇物語』が掲載され、「高等学校の教科書及び高等英学生の自習用に適す」と謳われている。またその英文版も見え、宝文館もそのような英語書を手がけていたのである。

 これらのことからわかるように、山宮はイェイツやブレイクの翻訳、研究者としてのかたわらで、岡山の六高教授として中高の英語教科書、サブテキスト類を多く刊行したように思われる。しかも『英米新詩選』の場合、定価は二円五十銭で、十四年七月は重版の運びとなっているし、一括採用の他にも売れていたのである。そしてそれは昭和に入って東京府立高校教授、さらに法政大学教授となってからも継続し、詩の研究や翻訳などとの兼業がなされていたのではないだろうか。そのことが山宮のプロフィルの曖昧化とも結びついていたし、古本屋で彼の研究書や翻訳詩集を見出せず、『英米新詩選』のような教科書しか入手できなかったことともリンクしていよう。

 版元の宝文館は表紙に「大阪・東京」とあるように、全国的な教科書会社であり、すでに『近代出版史探索Ⅴ』930で、昭和七年の東北帝大教授たちによるデュルケム『自殺論』全訳、及び宝文館創業社の大葉久吉にふれているが、『英米新詩選』の発行兼印刷者は柏佐一郎なので、こちらも『出版人物事典』の立項を挙げてみる。

出版人物事典: 明治-平成物故出版人

柏佐一郎 かしわ・さいちろう]一八八一~一九五九(明治一四~昭和三四)大阪宝文館社長。広島県生れ。大阪吉岡宝文館神戸支店に入店、支店長になる。大正の初め同社整理の折、再建に努力、のち社長に就任。中等教科書・学参ならびに経済関係書を出版。業界人としても活躍、一九一四年(大正三)結成された大阪雑誌販売業組合の常任理事をはじめ、全国書籍雑誌商地方協会会長、大阪中等教科書販売協会、日本放送出版協会取締役などをつとめ関西の長老の一人であった。四一年(昭和十六)日本出版配給株式会社の設立発起人の一人となり、創立とともに監査役に就任した。

 この立項から類推すると、大正後半から昭和戦前にかけての宝文館は柏の全盛時代だったことになるし、山宮の対訳書も柏のもとで刊行されていたのである。

 さて最後になってしまったけれど、『英米新詩選』にもふれておくべきだろう。同書は英文タイトルを Shorter Poems of To-day : an Anthologyとあるように、三十人の英米詩人の詩の原文を左ページ、その翻訳を右ページに配した対訳アンソロジー集となっている。私の知らない詩人も多いけれど、三十人目にイェイツが選ばれ、「水の葉の凋落」を始めとする十九の短詩が選ばれ、ここで山宮が最も親しんでいたのがイェイツであることをあらためて想起することになった。イェイツの詩も一編は挙げるつもりでいたが、もはや紙幅も尽きたので、いずれ別稿を書くつもりだ。


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