出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話956 佐藤融吉、大西吉寿『生蕃伝説集』と杉田重蔵書店

 きだみのるは『道徳を否む者』の中で、台湾の町の印象に関して、「アルジェリア・モロッコに範を取ったと云われる台北の町は美しく、そして歩道は張り出した二階の下になって、日射が遮られていた」と記している。そして「植民地に漂う異種文化は少年の中にエキゾチスムに対する嗜好(グー)を芽生えさせた」とも。これがきだをして後にモロッコに赴かせ、トラピスト修道院へと向かわせる発端となったのだろう。

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 それらだけでなく、マルセル・モースのもとで民族学を学ぶことになった発端すらもうかがわれる。それは「生蕃」についての言及と会話に、その最初の痕跡が表出していよう。「少年」は台北一中に通う汽車の中で、「生蕃の一隊」を目撃する。「彼等は広い多彩の厚手の織物を纏い、腰に弦月形の蕃刀をつけていた」。「生蕃」は台湾の原住民で、日本の同化政策により、日本の国力を見学させるための旅行に駆り出されていたのである。「少年」は「痩せた生蕃の風貌を気味悪く眺め」、父のところに訪ねてくる警察の人が語る「蕃界勤務自体の挿話」を思い出す。それは次のようなものだ。

 生蕃の馘首は悪い気でするのではなかですたい。馘首してくると奴らは部落中で集まって儀式をして、口から酒をつぎ、首から流れでた奴を受けて皆で飲むですな。そしてその首にこんなことを云うですたい。「これでお前は俺らの仲間になった。おまえは仕合せ者だよ。おれらの天国に行けるようになったのだから」と。奴らは自分の部族のいるところが一番好え国だと思うとるですな。だから自分たちの行く国が一番上等の天国と思うとるですたい。愉快ですな。

 話はまだ続いていくのだが、これだけにとどめ、註釈は加えない。

 これは明治四十年代におけるきだの体験であるが、この時期から台湾総督府の蕃族調査会によって、大正時代に『蕃族調査報告書』『蕃族慣習調査報告書』(いずれも全八冊)として刊行される蕃族研究が始められていた。この両書が柳田国男の「山人」や折口信夫の「まれびと」の原初のイメージに影響を与えたこと、また蕃族の反乱としての霧社事件を映画化したウェイ・ダーション『セデック・パレ』などについて、拙稿「見てごらん/美しい虹の橋を/祖先の霊が私を呼んでいる」(『郊外の果てへの旅/混住社会論』所収)で既述しているので、よろしければ参照されたい。

f:id:OdaMitsuo:20190924141920j:plain:h115 f:id:OdaMitsuo:20190924141614j:plain:h115 セデック・バレ 郊外の果てへの旅(『郊外の果てへの旅/混住社会論』)

 だが大正時代に出された蕃族調査書はそれらだけでなく、やはり大正十二年に佐藤融吉、大西吉寿を著者とする『生蕃伝説集』が出されていたのである。佐山は拙稿で挙げておいたように、先の調査書の執筆メンバーの一人だった。この書名だけは本連載941の松本信広の『日本神話の研究』で目にしていたが、それが台北市の杉田重蔵書店からの刊行だとは認識していなかった。おそらくこの版元は台北市で書店を兼ねていたと思われるし、戦前における植民地や外地での出版の全貌はまだ明らかにされていないし、もはやそれらの書店や出版者の消滅と時代の風化もあり、全容をたどることは難しい。

f:id:OdaMitsuo:20190924112555j:plain(『生蕃伝説集』、大空社復刊)日本神話の研究

 私はまったく偶然に、菊判上製、七二八ページの『生蕃伝説集』を神保町の長島書店で見つけたのだが、これは台北市の南天書局による一九九六年の復刻版なのである。先の二つの調査書の台湾での復刻も仄聞していたけれど、こちらも同様だったとは知らずにいた。どのようにしてこの復刻版がその二十年後に神保町へと流れついたのだろうか。それもさることながら、実はそれを入手してしばらくして、古書目録の横浜の古書馬燈書房の欄で、『生蕃伝説集』の初版のカラー書影を見つけたのである。これは復刻版と異なり、函と本体が総木版画装で、その挿画を担当している盬月桃甫によるものだ。

f:id:OdaMitsuo:20190924145144j:plain:h120(『生蕃伝説集』)

 大西の「はしがき」を読むと、彼は台湾総督府における佐山の同僚だとわかる。大西も「北部蕃界の旅」を終え、佐山と「台湾で蕃界ほど愉快な処はない、蕃人ほど可愛いゝ人はない」と話が尽きず、「生蕃の伝説は実に世界のどの国の神話伝説よりも面白いと思ひ」、『生蕃伝説集』の企画が持ち上がったという。「凡例」によれば、同書は生蕃の説話を集め、それに平埔蕃と南島群島の伝説を加えたもので、生蕃説話の大半は佐山の『蕃族調査報告書』から引き、さらに類書を参照し、平地の蕃族である平埔蕃史料はそのほとんどを旧民政部嘱託伊能嘉矩の報告により、南洋類話はScott, Indo-Chinese mythology. 及びDixon,Oceanic mythology の抄訳だとされる。

Oceanic mythology (Oceanic mythology )

 そこで「南洋類話」を除き、それらの内容を挙げると、「創世神話」「蕃社口碑」「剏始原由」「天然伝説」「勇力才芸」「怪異奇蹟」「情事情話」の七つのセクションから構成され、それらの各章がさらにそれぞれの生蕃や事象ごとに分類され、項目でいえば、三百近くに及んでいることになる。例えば、『道徳を否む者』で語られていた「馘首」は「剏始原由」のところで、「馘首」として立項され、その歌や「馘首の由来」という挿画を添え、一二ページに及び、警察の人の証言を裏づけている。

 本連載でずっと『民族』にふれてきたが、その創刊は大正十四年十一月で、大西たちも『生蕃伝説集』を編むにあたって、日本における人類学や民族学の胎動を意識していたにちがいない。大西の「はしがき」にある「私共は此の小著を以て人類学や民族学までに大いに貢献しようなどゝ大それた望は毛頭持つてゐない」という言葉は、逆にそれらを意識していたことを問わず語りに伝えていよう。

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古本夜話955 トラピスト修道院と間世潜『トラピスチヌ大修道院』

 きだみのるの『道徳を否む者』において、「私」は十五歳の少年時代を回想する。「少年」は台湾の父のところから東京の叔父の家に引き取られ、中学時代を送っていた。しかしそれは台湾の自然と光に包まれた暮らしと異なり、「溝泥の霧の中で生活しているようなもので、我慢できないもの」であった。
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 彼はもっと光のさし込む澄んだ生活の場所が何処かにあるに違いないと考えた。少年は何時か何かの本でトラピストのことを読んだ。そこでは修道士たちは神に祈り、勤労していた。少年の知っているのはそんなわずかなことばかりだったが、欠けたところは自分の想像で補った。そこは自由で平等で、少年はそこに行ったら本を読み、労働しよう。それは彼に一番気に入った生活であるに違いない。そこの生活が美しく想像で描かれれば描かれるほど現在の生活はもっとつまらなく感ぜられた。
 少年はトラピストに行くことを決心した。

 このような少年の述懐を読むと、中央公論社の『世界の名著』全巻を読破したという友人が、高校時代にトラピスト修道院に入るといい、北海道に向けて家出したエピソードを思い出す。ただ彼のほうはそれが果たせず、北海道のサッポロラーメン屋で働き、それから戻ってきたのではあったが。

 だが「少年」のほうは函館に向かい、湾内汽船で修道院の下の発着所で降り、修道院への険しい坂道を上り、山を控えた「沈黙の館」に入っていった。迎えたのは赤い顔の粗毛衣の外人僧で、「少年」を一室へと案内し、それから、修道院の内部、食堂、礼拝堂を見学させ、さらに外の牛舎と酪農の工場へと連れていった。工場にはバターの製造機械などがあった。そこで「少年」はジョゼフ・コットと出会ったのだ。

 私が最初、彼に会ったのは入江の向こうに函館の市街の黒い屋根が見える高原であった。そこには沈黙の行と労働と祈りに一生を捧げ、それを通じて神に仕えると同時に人の社会にも仕える―というのはこの修道院の創設者たちは人の一番望まない荒れ地を所望し、それを開拓し、酪農を経営し、日本で味わえる最良のバターを生産して、死んだ土地を人を養う生きた土地にしたのだから―修道者たちの一団の館が建っていた。

 このように描かれたトラピスト修道院のイメージを写真などで確かめたいと思い、探してみたけれど、『日本の教会をたずねてⅠ・Ⅱ』(「別冊太陽」、平凡社)やガイド類などにも見当らなかった。それでも奈良原一高の『王国』がトラピスト修道院ではなかったかと思い出し、『奈良原一高』(「日本の写真家」31、岩波書店)を繰ってみると、そこには「沈黙の国」としてのトラピスト修道院の四枚が収録されていた。その一枚は牛の背後に控えるトラピスト修道院の建物が写り、祈りを捧げる修道士たちの姿もあった。

日本の教会をたずねて f:id:OdaMitsuo:20190923153721j:plain:h110  奈良原一高

 しかしこれだけではトラピスト修道院の全容はうかがえず、それはかつて手にとり、見た記憶のある婦人刑務所「壁の中」と二部仕立ての『王国』(朝日ソノラマ)を入手しても同様だと思われた。そこで想起されたのは『トラピスチヌ大修道院』のことで、こちらは偶然ながら、間世潜『トラピスチヌ大修道院』(トラピスチヌ写真帖刊行会、昭和二十九年)と野呂希市『トラピスチヌ修道院』(青菁社、平成十年)を均一台から拾っている。ここではA4判、モノクロの「ライカ写真集」である前者を見ることでトラピスト修道院を想像してみたい。トラピスチヌのほうは女子修道院だけれど、その建物や生活は共通していると思われるからだ。
f:id:OdaMitsuo:20190918232408p:plain:h110 (『トラピスチヌ大修道院』) トラピスチヌ修道院(『トラピスチヌ修道院』)

 間世は「序文」に当たる「トラピスチヌ大修道院」と題する一文において、この修道院に関して、次のように述べている。

 トラピスト女子修道院の正しい名称は「トラピスチヌ大修道院、天使園」で、北海度函館市から北東およそ八キロ、即ち函館郊外にある湯の川温泉から、更に奥へはいった静かな丘陵地帯にある。いまから五十六年前の1898年(明治三十一年)四月、フランスから派遣された八人の仏人修道女によつて、現在の場所にあつた旧孤児院を仮の修院として、聖母の保護のもとに修道生活がはじめられたのである。言葉にも風習にもなれないなか<<に、非常な辛苦をなめて、ひたすら神への道に仕へ、遂に現在日本で唯一の女子大修道院にまで発展せしめたのである。

 そして男子修道院として、渡島国当別村にトラピスト大修道院があるとも記載され、これが少年とフランス人が出会った修道院、『王国』の「沈黙の園」に他ならない。

 それから『トラピスチヌ大修道院』の写真は「祈り」から始まり、「生活」「動労」「沈黙」「祭服の種類」へと至り、一二八ページに及んでいる。いずれも修道女が「キリイ・エレエソン」という祈りを唱え、牛を引き、トラピスチヌ・デセールやバターをつくっている光景が写され、修道院から見た函館の夜景も映し出されている。もしトラピスト大修道院の写真集が試みられたにしても、被写体は女子と男子が異なるだけで、同じような構成になっていたのではないだろうか。

 『トラピスチヌ大修道院』は頒価を一七〇〇円として、二〇〇〇部限定出版で刊行され、私が所持する一冊は1349とナンバーが打たれている。写真家の間世潜、装幀の里見勝茂、製作に携わった最上運一郎については何も知らない。しかし巻頭に見える、これも写真入りのエ・エム・ミカエル大院長のメッセージによれば、「東京の世界的に名声のある芸術写真家間世氏は、教区の司教の例外的許可を得て修道院内に入り、馘首の写真を撮られて」とあるし、それは五年間にわたったという。とすれば、この写真集の出版は間世たちとトラピスト修道院のコラボレーショによって刊行に至ったことになる。「少年」とフランス人の出会いではないけれど、そこにも様々なドラマが起きていたにちがいない。


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古本夜話954 きだみのる『道徳を否む者』

 もう一編、ジョゼフ・コットに関して書いてみる。

 前回取り上げた小説 『道徳を否む者』『きだみのる自選集』第二巻に収録されている。これは明らかにきだみのる=山田吉彦の自伝というべきものだが、「山村槙一の手記」によるとのサブタイトルが付されているように、フィクションの体裁をとっている。さらにジョゼフ・コットは「彼」、またアテネ・フランセも一貫して「A…F…」の表記である。そしてその周辺人物も多くはイニシャルで記され、おそらくそれらの匿名化への配慮は、この作品の中でもふれられているように、「A…F…」が財団法人化され、新たな公的フランス語学校として認められていくことに対し、波紋を投じることを避けようとしたのだと判断できよう。

f:id:OdaMitsuo:20190914235119j:plain:h115   f:id:OdaMitsuo:20190914235928j:plain:h115

 『道徳を否む者』は「私」=山村が新聞で写真入りの「彼」の訃報を見たことから始まっている。そこには「七十五年の生活の生涯の半ば以上を東京で過したこのフランス人の略歴」が記されていた。しかも「私は彼を一番よく知っている一人」で、その写真は他ならぬ「私」が写したものだったのであり、その日の情景を想起させた。それはフランスに三年滞在後に東京に戻ってきた日とされている。しかし現実には五年滞在し、モロッコ旅行後に帰国し、アテネ・フランセの語学教師になっているので、昭和十四年のことだったと推測される。

 「私」は「彼の子、次いで弟子であり、友であった」から、「私の家は彼の家」で、「私の突然の出現」を見て、彼は自分の目が信じられないような表情を浮かべ、言葉がすぐに出てこなかった。

 やっと(アンファン)、と彼は嘆息するように呟いた。そしてつけ加えた。おまえは帰って来たね。そう云って彼は立ち上り、私の頬に接吻し、私はそれを返した。私はそこに旅に出して待ち兼ねた子を迎える父、修業に送りだした弟子の戻りを待つ師(メートル)、長い別離の後で再会する友を感じた。

 このシーンは二人の関係を象徴的に浮かび上がらせている。同書でも描かれているが、明治四十四年に十六歳の「私」は「彼」に函館のトラピスト修道院で出会った。そこで一度だけ、「彼」の名刺には「J…C…」とあったとの言及が見える。それから大正六年には慶應大学理財科を中退し、「A…F…」の仕事にたずさわり、昭和九年にはフランス政府奨学生として渡仏し、ソルボンヌ大学でマルセル・モースに民族学を学び、四十四歳で「やっと」帰国してきたのである。すでに最初の出会いから三十年近い月日が流れている。

 「私」の渡仏は「彼」の知人たちへの紹介状を携えてのもので、「彼」はいう。「みんなおまえを満足させるような歓待をしてくれたかね」と。本連載946で山田のいうところのモロッコにおける「ホスピタリティ」の問題とリンクする。それはモースの多文化共生のための『贈与論』が二人の前提となっていたことを意味しているだろうか。そのことはともかく「私」はパリの生活で最も親切だった人々を別のところに見出していたけれど、「ウイ」と応えるしかなかった。それを聞いて、「彼」は自分がまだ忘れられていないと呟くようにいった。だが「私」は思う。

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  彼の日本の滞在が五年、十年、十五年とフランスに帰ることなく長引くに連れてパリからの便りも段々と少なくなり、最後の今では昔の知り合いとの付き合いもクリスマスのような儀礼的な名刺の交換のようなものに限られてしまった。それも年々数は減ってきたので、彼はパリのことを考えると、いつも置き去りにされたような孤独の感じを持っていたのだ。私の訪問のとき与えられたそんな人たちの歓待の物語は、丁度私が彼の代理であるかのような風に彼には考えられたに違いない。しかし……

 その後は語られず、パリでも日本人ではなくフランス人との友情が述べられ、「彼」のやはり同様のフランス大使館や在東京のフランス人との不和が対比される。それからパリで求めた「彼」へのプレゼントの金のカフスボタンを並べ、同じくドイツで買ったカメラのレフレックスで、「彼」の写真を撮ったのだ。それが訃報に添えられた写真だったのである。

 ただ「私」は「A…F…」でのルーチンワークとしての語学教師に向いておらず、それに加え、「私の精神は大半潜在的ながら彼の慈愛に過度の重圧と束縛を感じていて」、病気の見舞いにもいかないでいた。それが冒頭にある「しまった」という呟きにこめられていた。それから最後に会ったのは去年の「新聞賞を貰った時」と出てくるので、それが『気違い部落周游紀行』(吾妻書房)で毎日出版文化賞を受賞した昭和二十三年だとわかる。「彼」の死はその翌年だったことになる。

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 「私」は見舞いの代わりのように葬儀に向かう。そして日本での「彼」と「A…F…」の軌跡が回想される。東京帝大や外国語学校での語学教師としての不和からの「A…F…」の創設、それは「高等仏語」という私塾として、神田橋際の和強楽堂の汚い一室から始まり、次に美土代町のYMCAに移った。第一次世界大戦が起きた頃で、医学者や外交官や武官たちも加わるようになっていった。そして「私」は創設者で校長の助手のような立場にいたのである。

 「私」の回想のかたわらで、少ないながら会葬者が集まり始め、「校長はどうしてmisogyne(おんなぎらい)だったんだろうなあ」という声がもれる。おそらく「歓待」と「misogyne(おんなぎらい)」はどこかでリンクしているのだろう。そうするうちに、葬列の儀式は終わった。「彼」は無神論者だったが、晩年にカトリックに回帰していたようで、カトリックの葬式で送られた。

 墓地には会葬者たちが集まり、埋葬の場所に近づいた。そして「彼」が「あなたも、死ぬとき、わたくしの傍に埋めるよう、遺言しなさいね」といった言葉を思い出した。「私」は「最後の別れ」を告げなかったので、「最後の体面」への願望が激しく募った。だがすでに棺は太い綱で穴に降ろされ、もはや硝子のはまった木蓋を開けることはできなかった。しかし人夫がシャベルで土を投げ入れると、蓋のところに当たり、その反動で蓋が開き、死者の顔が見え、その「慈愛に満ちた眼」が地の底から「私」に迫ってくるようだった。「私は彼の眼を見つめていた。私は涙が流れはじめるのを感じた」。そして教会の一隅に戻り、彼のために祈ると、思わず「キリエ・エレエソン」というひとつの言葉がもれた。それは二人が初めて出会ったトラピスト修道院にあって、祈りの中で繰り返されていた、日本語で「主よ、憐れみ給え」と訳されている言葉だったのである。


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古本夜話953 ジョゼフ・コットとオリバー・ロッジ『心霊生活』

 本連載946から少し飛んでしまったが、もう一度山田吉彦に戻る。山田はきだみのるの名での『道徳を否む者』の中で、「J…C…」=ジョゼフ・コットのポルトレを描いている。コットのことは本連載926でもふれているが、もう少し詳細にたどってみる。

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 彼は日露戦争を通じて日本に興味を覚え、東洋一般へのあこがれを生じさせた。そこでリヨン大学を卒業し、パリで大学教員適格免状を取ると、日本に少しでも近づくためにペルシャ王室の王子の教育掛りとなり、その二年後に東京帝大文学部のギリシャ語、ギリシャ、ラテン文学の講師として日本にきた。しかし講師の給料では帰国する余裕はなかった。

 こうして彼は神経衰弱になった。病勢が昂ずると彼は築地の外人経営の病院に入院した。外科を得意としていた院長は、彼が重態で命は長くないであろうと云った。このために病勢はもっと悪くなった。彼にとって死の恐怖が始まった。死後に就て読んださまざまな本の記憶が彼を苦しめた。病気の始めの頃、彼は好く霊魂学の本、特にオリバー卿の死後の生の本を読んでいた。神経衰弱の弱りから死後の霊の存在は二重に彼を苦しめたように見えた。棄教して無神論者となった彼には霊魂が肉体と一緒に亡びてしまえば、それは何でもなかった。しかし霊が存続していては、棄教者のそれは長い間煉獄で苦しまねばならない。

 それもあって、彼はトラピストのバターを愛用し、菜食主義者で、その無神論は当時の革新思想の急進社会党のものと同じだった。そして在日フランス大使館がアテネ・フランセの成功を見て、エコール・フランセーズを設立しようとした際に、ポアンカレ大統領に手紙を出して抗議し、国家権力が個人の善き企ての芽をつむことを阻むようにするとの返事をもらったというエピソードも付されている。このような彼の思想はデュルケムやマルセル・モースたちとも通じるものであり、その回路を通じて、きだ=山田吉彦もフランスへと送り出されたのであろう。

 それはともかく、コットのような人物にとっても、「オリバー卿の死後の生の本」がオブセッションとなっていたのは意外であった。この本に関しては拙稿「水野葉舟と『心霊問題叢書』」(『古本探究Ⅲ』所収)で、夏目漱石も読み、その翻訳が大正六年に『死後の存在』として、高橋五郎訳で玄黄社から刊行されていることにふれている。

古本探究3   f:id:OdaMitsuo:20190913115302j:plain:h112(『死後の存在』)

 コットのそれを読んだのはいつだったのか明確ではないけれど、やはり大正時代だったのではないだろうか。同じく日本においても、「オリバー卿の死後の生の本」=Survival of Man は注目されていたようで、玄黄社版だけでなく、同じく大正六年に大日本文明協会から『心霊生活』として、藤井白雲訳で刊行されている。高橋五郎訳はすでに言及しているので、ここでは藤井訳を見てみよう。

 オリバー卿は『岩波西洋人名辞典増補版』に立項されているので、まずはそれを引いてみる。

岩波西洋人名辞典増補版

 ロッジ Lodge Sir Oliver Joseph 1851.6.12~1940.8.22  イギリスの物理学者。リヴァプール大学教授(1881-1900)。バーミンガム大学の創立と共にその初代総長(1900-19)。電気通信、特に無線電話を研究して、電磁誘導無線電信を発明し、また初めて伝播の同調を行って感度をあげた(1897)。他に熱、エーテルの研究もある。後年は心霊学にこって死者との通信を信じた。(後略)

 ロッジが「心霊学」に深入りしたのは第一次世界大戦で、息子のレイモンドが先史したことによっている。それは本連載100の「新光社『心霊問題叢書』と『レイモンド』」で取り上げているので、そちらを参照してほしい。

 大日本文明協会の『心霊生活』の翻訳構成は、第一篇「心霊研究会の目的及対象」、第二篇「実験的遠感」、第三篇「自発的遠感千里眼」、第四篇「自動作用と千里眼」となっていて、それぞれが章として分けられ、トータルで二十五章に及んでいる。その第一章は「心霊研究会の起源」と題され、「幾多の不可思議不可解なる出来事は、古今東西、あらゆる民族、あらゆる時代を通じて、其存在を認められて居る」と始まり、それらをすべて「迷信の一語」と断言するわけにはいかないと続いている。

 先の拙稿で、心霊研究会=英国心霊研究協会の設立が一八八二年で、それが本連載104などで繰り返し言及してきたマックス・ミュラーの『東方聖書』のサンスクリット経典の英訳に多大の影響を受けていたことを指摘しておいた。しかしあらためてロッジの、「幾多の不可思議不可解なる出来事は、古今東西、あらゆる民族、あらゆる時代を通じて、其存在を認められて居る」という書き出しを読むと、同じ英国において、発表されようとしていたフレイザーの『金枝篇』(1890~1915)のことを想起させずにはおかない。フレイザーが、「幾多の不可思議不可解なる出来事」を神話や伝説、未開民族の説話を通じて解明しようとしたのに対し、ロッジたちの心霊研究会もまた「死後」の探究へと向かったといえるのではないだろうか。

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 なお心霊研究会に関しては、ジャネット・オッペンハイムの『英国心霊主義の抬頭』(和田芳久訳、工作舎)が好著で、その全貌をよく伝えていることを付記しておく。

英国心霊主義の抬頭


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古本夜話952 花森安治、生活社『くらしの工夫』、今田謹吾

 本連載927に続けて、同948でも生活社にふれたこともあり、やはり生活社に関しても一編を挿入しておきたい。それは後者を書き終え、浜松の時代舎に出かけたところ、ずっと探していた生活社の一冊を見つけることができたからでもある。

 その一冊とは昭和十七年六月に刊行された『くらしの工夫』で、初めて実物を手にしたのだった。A5判並製、二三二ページ、装幀は佐野繁次郎で、内容は「きもの」に関する「くふう」のグラビア、デザイナーらしき女性たちによるイラスト入り「でざいん」、それに横光利一の「勝負」に始まる着物や洋服についてのエッセイが十九本続き、最後は安並半太郎の「きもの読本」で終わっている。

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 この『くらしの工夫』は同じ生活社のシリーズと見なせる『すまひといふく』の書影とともに、『花森安治』(『暮しの手帖』保存版Ⅲ)に掲載され、そこには何の説明もないのだが、双方の安並の「きもの読本」のページが見開きで、併載されている。それは『「暮しの手帖」と花森安治の素顔』(「出版人に聞く」シリーズ20)で、河津一哉が証言しているように、安並が花森のペンネームであることを物語っているし、『くらしの工夫』が『暮しの手帖』を彷彿とさせることは言を俟たない。それに付け加えれば、『くらしの工夫』の「女の人、おこつてしまはないで聞いてほしいが」と始まる「序」は巻末に「C」というイニシャルが記されているが、これは「かつと」を担当している三木張吉の「C」で、これまた花森のペンネームではないだろうか。

f:id:OdaMitsuo:20190912113842j:plain:h120 f:id:OdaMitsuo:20190912114135j:plain:h120 f:id:OdaMitsuo:20190912210530j:plain:h120 「暮しの手帖」と花森安治の素顔(『「暮しの手帖」と花森安治の素顔』)

 またこの二冊の他に、やはり生活社から出された『婦人の生活』第一冊、その第二冊にあたる『みだしなみとくほん』が『佐野繁次郎装幀集成』(みずのわ出版)に掲載されている。これらが戦後の『スタイルブック』と『暮しの手帖』の範とベースになったと考えていいだろ。これらの四冊は昭和十五年十二月から十七年六月にかけての刊行である。だが花森はそれらに関して何の証言も残していないし、彼の年譜を見ても、十四年に除隊して]伊東胡蝶園(後にパピリオ)に復職し、翌年に大政翼賛会宣伝部に入り、十九年にはその文化動員部副部長に就任している。

f:id:OdaMitsuo:20190912120512j:plain:h120 f:id:OdaMitsuo:20190912120145j:plain:h120(『佐野繁次郎装幀集成』)

 その軌跡から考えると、生活社の四冊は伊東胡蝶園に復職し、大政翼賛会宣伝部に入った時期に出されているとわかる。伊東胡蝶園は佐野を通じて就職しているし、大政翼賛会との関係は杉森久英「花森安治における青春と戦争〈抄〉」(『花森安治』所収)に描かれているけれど、まったく不明なのが生活社とこれら四冊との関わり合いである。それゆえに入手した『くらしの工夫』を参照し、検証してみる。

 幸いにして、付録といっていいA5判四ページの「婦人の生活の研究のかいらん板」第二号、アンケート葉書もそのまま挿まれているからだ。前者はまず「お禮」の一文が置かれ、「女学校の本や、隣り組、講習会の本に使つて下さいました方々に、つつしんでお禮申上げます」と始まっている。それは生活社のこのシリーズが戦時下の女学校、隣り組、講習会の採用本として編集刊行されたことを伝えている。奥付定価は一円三十銭、「発行(五〇、〇〇〇部)」はその事実を示していよう。

 杉森は花森の文化動員部副部長就任が「翼賛会としては異例の抜擢」で、地方県庁の部長級が当てられていたことから、「内部の平部員から昇格する例はあまりなかったが、花森はその珍しい例」だったと証言している。それは『くらしの工夫』の定価と発行部数から考えても、これらの四冊の企画の成功がその「異例の抜擢」の要因だったのではないだろうか。また生活社版以外に直販の大政翼賛会版も刊行されていたのかもしれない。

 しかしここで問わなければならないのは誰が花森と生活社を結びつけたのかということである。もちろんその他にも多くの生活社の書籍の装幀者だった佐野の存在も挙げられるが、アンケート葉書のことから考えてみたい。その宛先は神田区須田町の生活社内「婦人の生活の研究部」宛になっている。そして先の「かいらん板」と『くらしの工夫』の編輯人は今田謹吾とある。とすれば、この「婦人の生活の研究部」は今田を編輯長とし、これらの四冊を生活社から発行したことになろう。

 この今田は『日本近代文学大事典』に立項が見えるので、それを引いてみる。
日本近代文学大事典

今田謹吾 いまだきんご 明治三〇・二・二〇~昭和四七・一一・一六(1897~1972)児童文学者、劇作家、画家。広島市の津田家に生れ、母方の家をつぐ。中学時代に石山徹郎に教わり、上京(出版社勤務)後もともに新しき村創設の例会、演説会に参加。草創期(大七)の入村者の一人であるが翌年離村。童話、戯曲(中略)を書いたり、ファッション、婦人雑誌の編集など多方面の才能を発揮するが、終始、武者小路実篤の周辺から離れていない。晩年は絵画に精進し、「大調和展」にしばしば出品する。著書に『陶器の鑑賞』(昭和五・六 厚生閣書店)がある。

 この立項はあまり具体的ではないけれど、「ファッション、婦人雑誌の編集など多方面の才能を発揮」とあるので、「婦人の生活の研究部」へとリンクしていると推測される。それに生活社の創業者で、『くらしの工夫』の奥付発行人鐵村大二を置いてみると、彼も広島出身であり、おそらく本連載30の柳沼澤介の東京社の『婦人画報』や『スタイルブック』の編集者で、それらを通じて今田とコラボレーションするようになったのではないだろうか。そして独立して生活社を興し、今田を「婦人の生活の研究部」へと召喚し、そこに大政翼賛会にいた花森も参加する。したがって鐵村や今田を通じて、花森は婦人雑誌の編集ノウハウを学んでいったと思われる。だがなぜそれを花森が秘匿しておいたのかは謎のままなので、これからもそのことを探索してみたい。


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