山田たけひこは『柔らかい肌』『初蜜』から『マイ・スウィーテスト・タブー』に至るまで、一貫してぎこちないまでに真摯に「性」を物語のテーマにすえてきたといえるだろう。しかもその「性」の物語は、若き登場人物たちにおけるエネルギーとして表出し、それは表現と美術を磁場とし、生にも死にも結びつくという展開をたどり、まさにエロティシズムの物語を必然的に形成してしまうことになる。その固有なメカニズムはとりわけこの『マイ・スウィーテスト・タブー』に顕著であり、強度な露出を見ている。それを紹介しよう。
空山アキラは19歳になったばかりで、東京美術大学油絵科の1年生だった。国内の3大展覧会のひとつである日科展に2年続けて入選し、10人に1人の逸材ともいわれていた。彼は日科展の初日に出かけ、妹を描いた自作の前にいると、それを中途半端だけれど、「いい絵ね」とほめる女性がいた。その言葉に対して、「入選するのが目的でオモシロクもなんともない絵」だと彼は返した。すると彼女はいった。「評価されなくたって、おもしろい作品描いたほうがいいんじゃない? 生意気でおもしろい作品見てみたいわ」と。
その後アキラは、東美大学長と自分が目標とする洋画の巨人滝田圭二郎が話をしているのを目にし、そこに彼女も加わり、「奈津子さん」と呼ばれていたことから、その女性が滝田の娘だろうと考える。その奈津子に魅せられたアキラは、自分の絵に行き詰まりを覚えていたことも重なり、滝田の書生になることを画策する。そして紹介状を得て、鎌倉の滝田の自宅を尋ねると、出てきたのは奈津子で、滝田のアトリエへと案内される。滝田は奈津子をモデルにして描いてみろという。滝田はアキラの描いた絵を見て、本質が描かれておらず、ファンタジーだと断定し、もう一枚描くように命じ、奈津子を壁際に後ろ向きに立たせ、その色白で豊かなお尻をむき出しにし、彼女に「まったくおまえって女は、いつまでも無邪気で子供っぽくて、最高にいやらしい女だな」と語り、彼には「奈津子は今はわたしの妻でが、以前はモデルだった」と告げ、「幻想を捨てて、見たままを描くんだ」という。
ここまでが第1話の要約で、これを物語の始まりにして、『マイ・スウィーテスト・タブー』は第19話まで続いていくことになる。第1話のタイトルは、滝田のいう「最高にいやらしい女」となっていて、奈津子は彼の言葉を表象するように、若く無邪気でありながらも、胸や臀部が強調して描かれ、アンバランスなイメージを伝えんとしている。しかし作者の山田の奈津子造型はその筆致もあって、彼女に「宿命の女」といったニュアンスを投影させていない。むしろ逆説的にまじめで健康な女の肉体と表情を浮き上がらせてもいて、それが山田の性をテーマとする物語世界の特質であるといっていいのかもしれない。
とりあえず簡略に、三人の関係だけを主として最後までストーリーをたどってみる。滝田はアキラに対し、モデルに意識的欲望を投影させ、その妄想を画面に描くことが必要だと話す。色香を増していく27歳の奈津子に比べ、滝田はすでに老い、「才能のないペニス」、すなわち不能状態に追いやられて久しく、エロティシズムと性のリアリティが希薄になっていた。そこに若かりし頃の自分と似たタイプのアキラが出現したことになる。アキラは彼女をモデルとして描き続け、彼女の挑発によってついにその欲望を具体化させ、彼女の肉体に埋没してしまう。それはタイトルにあるように、『マイ・スウィーテスト・タブー』=「最も甘美な禁制」を破ることで、これも物語の行方を暗示するように、「彼女を抱くことは破滅を意味していた」との一節がそこに挿入されている。
そのようなプロセスを経て描かれたアキラの絵は、滝田によって「いい絵だ……意識的に欲望が出てきた」と評価され、またアキラのアパートで描かれていた彼女のヌードの肖像は「青を基調にして、とても斬新な感じ」に仕上がりつつあった。しかし三人の関係の舞台裏は次第に明らかになろうとしていた。滝田は妻とアキラの関係を隠しカメラによって覗き見することで、不能状態から回復する。そしてついにはアキラに二人の性の場面を描くように命じ、その最中に死に至ってしまう。
アキラは「滝田の再生のための歯車の一つ」から解放され、奈津子はとりあえずアキラを愛しているふりをし、二人の生活を始めようとする。彼女は「青を中心に」気品と純粋さを描き始めているアキラを、滝田の身代りに見立てている。しかしその二人を許さない滝田の息子がいた。彼も義母の奈津子を愛するゆえに、滝田の代行的存在と見なすべきで、滝田に代わって二人を処罰しなければならない。主役の滝田の死によって、すでに物語は終わってしまったからだ。
滝田の息子は買物帰りに、未来に向けて横断歩道を渡っているような二人を車ではねる。「自分たちだけ幸福になりたいなんて許さない」という理由で。そして物語はクロージングを迎える。
最後の第19話のタイトルは「オレが最後に見た永遠」となっている。アキラはアスファルトの上で夥しい血を流し、独白する。「なんだ? 仄暗いものが広がっていく―」。自分は海に中にいて、奈津子もまた海の中に立ち、問いかけている。「永遠って、きっとあなたが描く絵の中にあるかもしれないわよ」。その海と彼女の豊かな肉体を見て、「終わりなき蒼汒―オレは最後に永遠を見ているのか?」と問い、奈津子を求めたという「真実」=「最も甘美な禁制」を侵犯したゆえに、「事実」=「神による復讐」を受けたと思うのだ。
しかし死につつあるアキラのかたわらに奈津子の姿は見えず、あたかも消えてしまったかのようであり、ここに至って彼女は「宿命に女」ならぬ「幻の女」のような存在だったのではないかという問い掛けにもなっている。「最高にいやらしい女」という存在も、男たちの妄想でしかなかったように。
この『マイ・スウィーテスト・タブー』には、様々な先行する物語がオーバーラップしている。サブタイトルにある「蒼の時代」は滝田が言及しているように、ピカソの「青の時代」をすぐに連想させる。そしてアキラが奈津子との出会いによって、「青」の色彩にこだわることになったのは、この作品がもうひとつの「青の時代」、すなわちアキラの「蒼の時代」を意味しているのだろう。それとパラレルにアキラの名字の空山の「空」は「青」の意味でもあろう。あるいは本連載5 の安西水丸の『青の時代』に対する返歌のような作品と考えることも可能である。
また滝田の側から見れば、物語の構図は谷崎潤一郎の『鍵』や『瘋癩老人日記』が思い出され、特に前者とのいくつもの類似を指摘できる。さらに絵画と色彩との関係からすれば、松本清張の短編「青のある断層」(『青のある断層』所収、光文社文庫)が挙げられる。これはスランプに陥った画壇の大家が、画商によって持ちこまれた若き無名の画家の一種の児童画に啓示を受け、回復するというストーリーで、その注目すべき新作のタイトルが「青のある断層」だったのであり、これも『マイ・スウィーテスト・タブー』と共通している。ただそれゆえに谷崎の『鍵』と松本の「青のある断層」の物語ファクターをミックスさせて、山田の作品が出現したと見なすのは短絡すぎるだろう。
私見によれば、この作品にはもうひとつの触媒が必要で、何と大げさといわれるかもしれないけれど、それはこの連載が始まる二年前に新訳が出たジョルジュ・バタイユの『エロティシズム』(酒井健訳、ちくま学芸文庫)だったのではないだろうか。バタイユの著作はまさにエロティシズムと死、禁止と侵犯をテーマとしているからだ。『エロティシズム』に深く立ち入ることはできないが、よく知られた冒頭の「エロティシズムとは、死におけるまで生を称えることだと言える」から、性の衝動に脅えながらも、エロティシズムは禁止の規則への違反でありながらも、「見たところ人間だけが性活動をエロティックな活動にした」へとつながっていくセンテンスを目にしただけで、『マイ・スウィーテスト・タブー』の物語の水脈との交差を想像してしまう。
「最も甘美な禁止」と侵犯の果てにもたらされるアキラと滝田の死、それこそ「エロティシズムとは、死におけるまで生を称えることだと言える」のではないだろうか。
しかもバタイユは冒頭のその一節から始まる「序論」の最後のところで、エロティシズムと死のもたらす存在の連続性についてふれ、ランボーのあの著名な詩句を引用している。これも酒井訳を引いてみる。
見つけ出すことができたんだ。
何だい? 永遠さ。
それは、太陽と、
いっしょになった海なんだ。
この詩句はゴダールの『気狂いピエロ』のクロージングにも使われているが、『マイ・スウィーテスト・タブー』には『エロティシズム』のほうがふさわしい。そしてバタイユはエロティシズムと同様に、「詩は私たちを永遠へと導く。死へ導く。死を介した連続性へ導く。死は永遠なのだ。それは太陽といっしょになった海なのである」と結んでいる。
バタイユのいう「詩」を『マイ・スウィーテスト・タブー』に置き換え、それは「奈津子」やアキラの「絵」であってもかまわないが、もう一度そのクロージングを思い出してみよう。アキラもまた海を見て、「オレは最後に永遠を見ているのか?」と問いかけている。これもバタイユの『エロティシズム』との共鳴のように思える。