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古本夜話240 平凡社『世界家庭文学大系』、精華書院、楠山正雄訳『不思議の国』

『楠山正雄の戦中・戦後日記』における三香男の「解説」によれば、楠山が昭和十七年から日記をつけ始めたのは、長女冨美の見合いから婚礼に至る記録のためであったようだ。その結婚相手の同盟通信ハノイ支局長前田雄二は前田晁の息子で、前田と楠山は早稲田大学英文科の同窓であることから、話が進められたと考えられる。本連載236の「近代西洋文芸叢書」でも、二人は訳者に名を連ねていた。
楠山正雄の戦中・戦後日記

楠山による冨山房の「模範家庭文庫」の刊行とパラレルに、大正時代には鈴木三重吉の『赤い鳥』を始めとする童話、童謡雑誌が創刊され、『良友』『金の船』『童話』も続き、新たな児童文学の幕開けとなった。それらのリトルマガジンに楠山は多くの作品や翻訳を発表し、それはやはり児童文学を志す徳永寿美子を妻とする前田晁も同様だったし、彼の児童文学の仕事もこの時代に端を発しているのだろう。
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そしてまた大正から昭和にかけて「模範家庭文庫」の刺激を受けたいくつもの新しい児童や少年少女のためのシリーズが企画されていったのであり、それらの代表的なものとして、円本時代の『小学生全集』(興文社)と『日本児童文庫』 (アルス)を挙げることができるし、楠山も前田もそのようないくつもの企画に関係していたと思われる。

実は昭和二年に平凡社から刊行された『世界家庭文学大系』の第一巻のアミーチス作、前田晁訳『クオレ』が手元にあり、これは裸本でかなり痛んでいる本で、十年以上前に均一台で買い求めたものだ。その時『平凡社六十年史』を確認したのだが、第二巻のマーク・ツエイン作、村岡花子訳『王子と乞食』が同年に出ただけで中絶してしまったこともあってか、何の言及もなされていなかったので、事情がよくわからない円本として放置しておいたのである。
[f:id:OdaMitsuo:20140224175937j:image:h120] [f:id:OdaMitsuo:20120817142421j:image:h120](前田晁訳、岩波少年文庫)

あらためて楠山と前田の関係を知ったことから、もう一度『平凡社六十年史』を見てみると、監修者は楠山正雄、島崎藤村、前田晁と記されていて、これは明らかに楠山と前田の編集、翻訳を前提にして、平凡社に持ちこまれた企画だろうと思った。なぜならば、その菊判の造本と装丁、挿絵入り、総ルビの活字の組み方は「模範家庭文庫」を彷彿させ、またそれは二円八十銭の高定価にも表われ、冨山房価格を踏襲していると見なせるからだ。おそらく箱もあったはずで、それが確認できないのは残念である。つまり平凡社らしからぬ仕上がりと高定価によって、『世界家庭文学大系』はまったくといっていいほど売れなかったので、わずか二巻で中絶してしまったのではないだろうか。

しかも奥付の発行者が下中緑、すなわち平凡社の下中弥三郎夫人の名前になっていることは、この企画が彼女経由で持ちこまれた事実を物語っているのかもしれない。平凡社の命名は夫人によるもので、彼女名義で会社が興されたこともあり、大正四年の創業出版『や、此は便利だ』(平凡社復刻、一九九八年)などは発行者がやはり下中緑である。だが、この円本時代の出版物はすべて下中弥三郎となっていることからすれば、そのような事情が絡んでいると考えてしかるべきだろう。

とすれば、その企画が中絶したままで終わってしまったとは思えず、前掲書所収の「平凡社発行書目一覧」を追っていくと、昭和五年のところに『世界家庭文学全集』全十五巻が見つかる。これは四六判、五百ページ、定価一円五〇銭という平凡社にふさわしい円本形態であり、同じく所収の「内容見本の表紙」に見られるコピーには「少年少女家庭読物の定本! 学校図書館の必備書!」とある。実物を一冊も見ていないが、明らかに中絶した『世界家庭文学大系』の再現版である。収録作品は異なっているにしても、第三巻のチャールスカヤ『小公女ニイナ』は前田晁、第七巻のルイス・カロル『アリスの夢』は楠山正雄、エレナ・ポーター『パレアナの成長』は村岡花子の訳で、「世界家庭」のタイトルを同じくするふたつの全集の企画の共通性はいうまでもない。ところがこちらも『平凡社六十年史』には何の言及もない。

そこで楠山三香男の記述に戻ってみると、『世界家庭文学全集』所収の『アリスの夢』は大正九年に『世界少年文学名作集』の第九巻『不思議の国』として出されたものの改題との指摘がある。『世界少年文学名作集』は非売品で、精華書院内家庭読物刊行会発行となっていることからすれば、これは予約会員制出版で、これも「世界」と「家庭」が含まれていることから、そのまま平凡社の『世界家庭文学大系』へと焼き直された可能性も高い。大正時代の児童書出版社として精華書院自体が新興であったにしても、ほるぷ出版の復刻、秋田雨雀の童話『太陽と花園』(昭和十年)の巻末広告から判断すると、かなり旺盛な出版活動がうかがわれる。だが関東大震災の被害をこうむり、それが原因で企画が平凡社へと移ったとも考えられる。なぜならば、『不思議の国』は『世界少年文学名作集』シリーズ第九巻第二版として、継続して出版されていたことがわかるからだ。
[f:id:OdaMitsuo:20121004204310j:image:h110]『太陽と花園』

そしてさらに楠山訳は昭和七年に『不思議の国―アリス物語』として春陽堂少年文庫、没後の二十八年に『不思議の国のアリス』として創元文庫に収録されたようだが、入手しておらず、まだ楠山訳を読めずにいる。吉田新一編著『英米児童文学』(中教出版)における『不思議の国のアリス』の翻訳史をのぞいてみると、楠山の大正九年の『不思議の国』がその初めてのまともな完訳と見ていいようだ。しかし気軽に読めない現在の出版事情は、やはり楠山の翻訳に対する評価がなされていないことに尽きるだろう。

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