前回岡崎京子によるボリス・ヴィアンの『うたかたの日々』にふれたこともあり、表題作でも長編でもない短編だけれど、ここで彼女のブルーコミックにも言及しておこう。その「Blue Blue Blue」は九六年に『アンアン』に発表されたこともあってか、岡崎の多くの作品の中でも数少ないオールカラーで描かれていて、それだけでも特筆すべき一編かもしれない。
さらに付け加えておけば、この他にも『恋とはどういうものかしら?』には「東京ラヴァーズ」三作もカラーで収録され、この一冊は五十ページ以上がカラーという豪華な仕上がりになっている。八九年に同じマガジンハウスから出された『pink』は色彩そのもののタイトルにもかかわらず、カラーページはまったくないことと比べても、『恋とはどういうものかしら?』は岡崎の作品の中で記念すべき一冊とよんでもいいような気がする。
さて「Blue Blue Blue」に戻ると、従来の岡崎の作品はモノクロで描かれていたことから、白黒映画のイメージが強かったが、こちらは明らかにカラー映画をはっきり意識した作品だとわかる。ナレーションの場面はまず紅で示され、そこに白抜きで、ヒロインのモノローグが書きこまれ、物語の輪郭と進行を伝えようとしている。それは次のようなものだ。
6時半のバスでこの街から出てゆくはずだったの。月曜日の。朝6時半に。若い恋人と。でも彼は来なかったの。よくあるお話よね。
バス停で待っている彼女が描かれ、脈絡なく病室で横たわる若い女と彼女を見守っている若い男が挿入される。ヒロインは自宅に「ただいま」といって戻り、いつもと同じようにいつもより遅い朝食をつくりはじめる。モノローグの部分は千草色、勿忘草色(わすれなぐさいろ)、黒と変わっていき、「半年前、私たちは恋をした」ことが語られ、次の部分は黄色で、それが「夏の夜で10時半だった」と述べられている。この一節は次の黒の部分で、もう一度挿入されている。
ここまできて、この「Blue Blue Blue」のモノローグ、色彩の配置、物語を覆っているニュアンスがマルグリット・デュラスの小説と映画に範を得ているとわかり、その色彩に関する既視感が一九六〇年代のフランス映画にあったと了解される。黄色の部分のモノローグはデュラスの小説と、映画のタイトル『夏の夜の10時30分』をそのまま使っているからだ。
一九六〇年代に出版されたデュラスの『夏の夜の10時半』は、スペインの小さな町を舞台とするフランス人の夫婦の終焉と新しい恋の始まりを描いている。そして六七年ジュールス・ダッシン監督によって映画化され、日本でも公開されたのだが、残念なことに日本ではまだDVD化されていないようだ。
もちろんデュラスの小説や映画からインスピレーションは得たにしても、岡崎の「Blue Blue Blue」はそれをなぞっているわけではない。日本の八〇年代から九〇年代初頭にかけてのヴァニティな生活を背景とするカップルの日常を、彼女ならではのやるせなさと悲しみを共存させながら、見事に描いている。もうひとつのモノローグを引いてみる。「私は今28で、夫は32。3年前に祝福されて結婚した。幸福だった。今でも不幸ではない。ただ不幸でないことが幸福とは限らない」。
そして「夏の夜の10時半」に、「私」は若い男と出会い、夏の匂いとともに彼の匂いをも感じる。それは彼も同じで、夏の夜の彼女の匂いを思い出し、それまで「私」だけのモノローグであったのに、「ぼく」=ヨシヤのそれも重なり合うようになり、彼女の匂いの記憶に導かれて彼女を訪ねる。彼のモノローグも聞いてみよう。「奇妙な夏休みが始まった。悲しいような、なつかしいような、せつない夏休みだった。学校に入り、家を出てから初めてのこの街の夏だった」。この「ぼく」のモノローグを機にして、本を借りたり、一緒にビールを飲んだりするようになるのだが、ガールフレンドや彼女の夫とその愛人も含めた関係の世界へと膨らんでいく。その夏が終わり、秋が始まろうとする頃、「私」と「ぼく」は寝る。そのシーンが二人のモノローグで語られ、後に非人称的モノローグが続く。「奇妙な関係。複雑な関係。単純な関係。いりくんでいるけど、よくある、ありふれた関係」と。
まだ「Blue Blue Blue」の物語は半ばだが、後は読んでもらうことにしよう。ただすでにおわかりのように、クロージングは最初の場面に戻り、秋の街角のバス停に佇んでいる「彼女」の姿が、フランス映画の一シーンのようにまたしても挿入され、最後は彼女の若い恋人と夫のどちらを愛しているのかという思いについて、「でもそんなのわからなくて、困って、それがおかしくて悲しくて、少し笑うしかなかった」というモノローグで終わっている。
これはいつも思うのだが、このような岡崎の作品を読むたびに、彼女が同時代のコミックを含めた文化状況に多大な影響を与えたことは、村上春樹をはるかに超えているのではないだろうか。そしてあらためて、私たちの時代に比べ、八〇年代から九〇年代のコミックそのものが、驚くべき成熟と深化をとげたことを実感してしまうのだ。おそらくこの一編だけを考えても、九〇年代の他の優れた小説や映画と拮抗する作品たりえていると思われる。そしてタイトルにこめられた三つのブルーは、九〇年代と登場人物の心的現象のメタファーであるのだろう。またデュラスの映画だけでなく、六五年のアニェス・ヴァルダの『幸福』も思い出してしまった。
だがこの映画にはふれず、やはりデュラスの『夏の夜の10時半』の映画の脚本のために書かれた一文を引用して、「Blue Blue Blue」を閉じることにしよう。出典はジャン・ピエロ『マルグリット・デュラス』(福井美津子訳、朝日新聞社)である。
心変わりしたからといって誰を責められよう? 誰も責めることはできない。責めたところでなんになろう? 恋が体験されたことに変わりはないではないか。愛することは現世ではいまなお、最良の事柄なのだから。苦しまなければならないならなにもしないがよい? そのとおり。しかし、この苦しみは耐えうるものに変えることができる。それは苦しみを引き起こす張本人になることだ。(後略)
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