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古本夜話243 平凡社『世界美術全集』と中央美術社

本連載や『古本探究3』で、近代出版史において重要な人物が、隆文館の草村北星と中央美術社の田口掬汀ではないかと何度も既述してきた。それは私見のみならず、すでに紹介しておいたように、小川菊松『出版興亡五十年』の中で、新潮社の佐藤義亮と並んで、同時代の文士として出版業を始めた者が草村と田口であり、二人ともよい仕事はしたけれど、晩年は振るわなかったという意味のことを述べていた。

古本探究3   出版興亡五十年

今回は田口に限るが、彼と中央美術社が切り開いた美術出版の世界は、大下藤次郎と春鳥会(後の美術出版社)の仕事と比較し、拮抗するものだと判断していい。それは円本時代の美術全集にも反映されていた。実はこのことを失念していたのだが、前回と同様に『平凡社六十年史』を久しぶりに通読し、それを思い出したのである。
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同書の一章が「画期的な『世界美術全集』」と題され、下中弥三郎が『現代大衆文学全集』で得た二十数万円の利益を生かし、『世界美術全集』の刊行を企画し、東京美術学校の教授の田辺孝次などと会い、構想を固めていたとあり、次のように続いていた。

 その頃までは美術書といえばせいぜい千部どまりであり、円本による美術全集など夢のような話だった。しかしそれだけに鼓舞されるものがあり、田辺は賛成し、たまたま刊行を終えていたアンドレ・ミシェルの「美術史」のあり方を参考にして、各国の美術史の流れと年代によって横に切る編集の方法を採用するようにすすめた。(中略)
 編集委員には黒田鵬心(文化学院教授)、田辺孝次、税所篤二(日仏会館常務理事)、坂井犀水(国民美術協会主事)、木村荘八(画家・春陽会員)らが顔をつらね、社側からは志垣寛や井家(いけ)忠男(中央美術社にいたベテラン編集者で、「世界美術全集」を編纂するにあたって編集長として招いた)が加わり、(中略)石井柏亭が編集委員になるのは少し後のことだった。

本連載163164で大正三年に中央美術社から出された日本で最初の本格的な美術辞典を取り上げ、この編著者が黒田、石井、結城素明の三人だったことを記しておいた。この二人の他に、同辞典の編纂に関係していたであろうベテラン編集者井家が顔を揃えたことになる。だから平凡社の『世界美術全集』は、中央美術社の『美術辞典』の延長線上の編集、執筆人脈をベースにしていると考えられる。それに加えて、田辺のいうミシェルの「美術史」のコンセプトと方法論が相俟って、全三十六巻へと構想が固まっていったのだろう。

ちなみに同じ平凡社の戦後の『世界名著大事典』を参照してみると、ミシェルAndré Michelはフランスの美術史家で、その『美術史』はHistoire de l’art,depuis premiers temps chrétiens jusqu’à nos jours という全十巻十八冊に及び、これが範となったのであろう。それに『世界美術全集』の「美術の大衆化」という方針が反映されたと推測できる。しかも平凡社版はこれまでなかった西洋諸国と東洋各国の同時代の美術が一冊でわかる編集方針を採用し、第一回配本の第十七巻は『ルネサンスと東山時代』、第二回配本の第七巻は『ビザンチン、白鳳時代及び唐』、第三回配本の第二十九巻は『印象派と明治初期』で、まさに『世界美術全集』にふさわしく、共時的に東西の美術が図版で紹介され、画期的で斬新な企画だったといっていい。

しかし円本時代にありがちな企画の競合が出来した。それは新潮社で、こちらは中央美術社が企画し、新潮社が乗ったものだという。この真相はわからないのだが、中央美術社の田口掬汀は本連載165で示したように、新潮社の前身の新声社同人であり、新潮社と近しい関係にあったと思われる。そのような状況の中で、平凡社の円本『世界美術全集』は、中央美術社の企画と編集技術と人材の流失だと考えたとしても不思議ではない。 そこで面白くない田口は同様の企画を新潮社に持ちこみ、平凡社の企画に横槍を入れようとしたのではないだろうか。それに当時はアルスの『日本児童文庫』と興文社の『小学生全集』が企画の盗用問題から始まり、刊行に至っても泥仕合を重ねている最中でもあった。それゆえに平凡社と新潮社の場合も同じような状態になりかねなった。

そこでこれは橋本求の『日本出版販売史』(講談社)で東京堂の大野孫平が語っていて、よく知られた円本時代のエピソードだが、取次の大野が企画の共倒れを防ぐために仲介に入り、平凡社の『世界美術全集』の売れた部数につき、補償金を出すという条件で、新潮社が降りることで決着がついた。当初石井柏亭は新潮社の企画の編集委員を依頼されていたが、この決着により、懇願されて平凡社に加わったのである。

このようなプロセスを経て、昭和二年に十一月に刊行され始めた『世界美術全集』は四六倍判、原色と単色版、百五十ページ余で、本綴略装一円、同擬皮装装飾本一円五十銭、帙入り特装本二円という三種類に及ぶ、破格の美術全集であったことから、十二万数千部に達したといわれている。

この売行部数から考えても、下中がその「世界美術月報」第一号所収「美術の大衆化」で書いている「古今東西五千年の天才巨匠の名作神品の面影なりとも、写真複製の方法によつて万人に味はせたい。またこの名作神品の由緒来歴真価をも大衆に知らせたい」という願いは実現したと見なしていいだろう。この好調な売れ行きに応え、昭和五年から『世界美術全集別巻』全十八巻が続刊となり、こちらは「壁画」や「障屏画」などのテーマ別編集だがそれでも六万部を超える部数が出たようだ。

『平凡社六十年史』には円本としてはめずらしく、編集委員と編集者の両者が揃ったと見られる合同写真が掲載され、そこに井家忠男(編集長)と引頭(いんどう)百合太郎(編集委員)のキャプションが付せられている。引頭なるめずらしい苗字の編集者も中央美術社と関係があるのだろうか。そのことと関連して、昭和七年に『川柳漫画全集』という円本に類するものが出ていて、これもその出所が不明であったが、『世界美術全集』につながる中央美術社経由の企画ではないかと思い、ようやく納得したことになる。なおその後の引頭は、探鳥会の主要人物であったようだ。

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