私が諸星大二郎を読み始めたのは、一九七八年に「SF怪奇短篇集」として刊行された『アダムの肋骨』(奇想天外社)からなので、三十年以上にわたって諸星のファンだったことになる。
(奇想天外社版) (集英社版)
久しぶりに取り出して見ているうちに、またしてもついつい読んでしまった。それらの短篇集の中でも「礎(いしずえ)」は東日本大震災を体験し、さらに南海トラフ地震も想定されている現在において、かつてよりも奇妙な生々しさを感じさせる。その主人公の贄田生男は都内の地震研究所の事務を担当する庶務課勤めの一地方公務員だが、研究所が一年以内に関東大震災が起きると発表したその日に、地震予防課への転勤辞令を受けた。彼はその課があることも知らなかったし、そこでの仕事も単調な書類作りだった。しかし給料は上がり、バーのママとも関係ができ、生活は変わっていき、それとパラレルに片目が見えなくなり、眼帯をするようになった。ある日都庁によばれ、待っている間に柳田国男の『一つ目小僧その他』を読んでいて、昔の祭りのたびごとに一人ずつ神主を殺す習慣があり、その神主となるものは片目をつぶされ、生贄となることを知った。すなわちそれは贄田に他ならなかったのだ。かくして彼は都庁の地下の聖所で、地震という荒振る神の怒りをおさめるために、人身御供となる場面で、この短篇は終わっている。
八六年の双葉社ムック『諸星大二郎(西遊妖猿伝の世界)』の「単行本リスト」によれば、奇想天外社版は八二年に集英社から復刻され、その際にこの「礎」は「詔命」と改題されている。また同じテーマの「鎮守の森」も後に描かれるが、こちらは『ぼくとフリオと校庭で』(双葉社)に収録され、そこには「蒼い群れ」も入っている。
『諸星大二郎(西遊妖猿伝の世界)』
諸星はそれ以後、多くの作品を発表し、とりわけ現在も続いている『西遊妖猿伝』が代表作といえる。それゆえにここで取り上げる「青い馬」は小品であり、胃之頭町を舞台とする二人の女子高生コンビ『栞と紙魚子の生首事件』『栞と紙魚子殺戮詩集』などのシリーズの一編であるので、諸星作品としては物足りないかもしれないが、ブルーコミックス編の一環ゆえに、あえて取り上げることにしよう。実は前出の双葉社ムックに「蒼い群れ」も収録されていて、どちらにしようか迷ったのだが、タイトルになっているし、さらに表紙に「青い馬」が描かれていることから、こちらを選んだのである。
栞は朝から深い霧に見舞われた町を歩いているうちに胃之頭公園まで足を延ばした。するとそこに青い馬が二頭いて、霧の中を追いかけていくと、見慣れぬ商店街のところに出た。ステーキ屋の看板を持ったおじさんがチラシを配りながらいった。霧が濃い日には回りが見えなくなり、その分自分の心が見えたりする。それでなくても街がちがったふうに見えるから、変ったものを見たりしないかねと。そこで栞が青い馬を見たというと、教えてくれたお礼に福引券をくれた。
その福引券を手にして、栞は人通りのない商店街の路地へと入っていく。すると野菜を高く積み上げている八百屋、ヒトデや深海魚ばかり売っている魚屋、彼らだけでなく、他の商店の人々も奇妙な感じだった。そこに紙魚子も現れた。やはり霧の中を歩いてきたら、この商店街に出て、テンプラ屋で古本を売っていたので、買ってきたという。そんな話をしていると、福引所がそこにあり、二人はステーキ屋の開店サービス食べ放題という四等に当たった。
その後で栞は紙魚子にいう。
「ねえ、公園で青い馬を見たわ。きれいだったわよ」
「公園に黒馬(くろうま)がいたの?」
「黒馬じゃないわよ、青い馬…!」
「青馬(あおうま)って普通黒馬のことをいうのよ。本当に青い馬なんていないわ」
「そうなの? でも本当に青い馬だったわ。青白い馬が霧の中に二頭……」
そんな会話を交わしているうちに、二人はゴブリンというあのステーキ屋の前に出た。彼女たちはステーキを食べるつもりで入ると、あのおじさんがいて、店は四等に当たった開店サービス目当ての客で満員になり、肉の奪い合いが始まった。その肉は客たちのカニバリズムだとわかり、二人はそこから逃げ出す。紙魚子はテンプラ屋で買った『幻の博物学』という古本に書かれていた「化け物市」、すなわち霧の深い夜には化け物や幽霊の市が立つというエピソードを思い出した。だがその途中までしか読んでいなかったので、脱け出す方法はわからなかった。
二人は次第に化け物たちに包囲されてきた。そこにあの青い馬が現われ、その角で化け物たちを追い払い、再び霧の街の中へ消えていった。紙魚子はそれが一角獣(ユニコーン)で、小悪魔(ゴブリン)たちの天敵が青い一角獣だと書いてあるのを見つけた。しかしそれは初めて聞く話で、本当かどうかはわからず、霧の深い日は普段と異なることが起きるのではないかと思われた。
この諸星の「青い馬」一編を読んで、「青い馬」をめぐるいくつかのエピソードを想起した。まずはいうまでもなく、『新約聖書』の「ヨハネの黙示録」の共同訳を引けば、「見よ、青白い馬が現れ、乗っている者の名は『死』といい、これに陰府が従っていた」とある部分だが、残念なことに一角獣のイメージを派生させてはいない。
しかし中野美代子が『中国の青い鳥』(平凡社ライブラリー)で述べている青と黒のエピソードは、栞と紙魚子の青馬=黒馬をめぐる会話の簡にして要を得た説明となっている。それを引いてみる。
「青」の字がいわゆるブルーの色を指すのにとどまらないこと、和語の「あお」とほぼ対をなしている。青馬、青牛はいずれも黒い馬と牛であり、青眼は黒目(くろめ)、青系は黒髪(わが「みどりのくろかみ」を想起されたい)である。いずれも、人間や動物の髪や毛や目などのくろぐろとしたさまを、「青」をもって表現している。(中略)すなわち、有機体としての生命力を秘めた黒を、凡百の黒と区別するために、「青」と表現したのであろう。
これは拝聴すべきブルーをめぐる色彩論であり、諸星も中野のこのような部分から、青馬=黒馬説を引いてきたように思われるが、それがどうして一角獣伝説へと結びついていくのかがたどれず、私の推理はそこで途切れてしまう。
パリのクリュニー美術館所蔵のタピスリー「貴婦人と一角獣」を表紙カヴァーに用い、その他にもいくつもの一角獣の図像を援用した杉橋陽一の『一角獣の変容』(「エピステーメー叢書」、朝日出版社)を覗いてみても、それらの疑問は解かれなかった。これは紙魚子が「初めて聞く説」といっているように、諸星の純然たる創作であるのかもしれない。
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