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古本夜話295 橋口景二、研文書院『最新実用家事全書』、大妻コタカ『ごもくめし』

前回の東京書院は戦前からの出版社であるとの記述を紹介しておいたが、その出版物については入手していなかった。
しかしまったく偶然ながら、家事に関するカラー口絵などに興味を覚え、気紛れに菊判箱入、ビロード装七百ページ近い『最新実用家事全書』を購入したことがあった。これは大妻技芸学校と大妻高等女学校の校長大妻コタカを著者とする一冊で、昭和十一年に本郷の研文書院から橋口景二を発行者として刊行されている。私が入手したのは十二年の四版で、定価は四円五十銭とあり、巻末広告によれば、研文書院は同じ著者の『現代裁縫全書』も出版している。
『現代裁縫全書』
おそらくこれらの二校は、現在の大妻女子大の前身、大妻はその設立者、二冊の『全書』は内容と「文部省認定」などの言葉から推測して、その教科書にあたるものだと思われた。そして研文書院という版元が、この二校の教科書出版社に位置にあるのではないかとも想像された。

その後しばらくして、古書目録で大妻コタカ『ごもくめし』なる一冊を見つけ、入手してみると、これは彼女が満七十七歳の喜寿の記念として、昭和三十六年に私家版で上梓した「伝記のようなもの」で、五十四年になってその改版が大妻学院から出されているようだ。同書によれば、彼女は明治十七年広島県に生まれ、三十六年に九段の和洋裁縫女学校を卒業し、小学校教師、結婚を経て、大正三年に技芸塾を始め、それが伝習所、技芸学校、大妻高等女学校へと発展していったことになる。
『ごもくめし』
『ごもくめし』において、彼女のそうした軌跡が断片的に語られていくわけだが、戦後の追放と住んでいた学校内の住居からの立ち退きの場面になって、いきなり「東京書院の橋口さん」が出てきて、「家を建ててあげます」といわれ、「現在の住居がそれです」と語られている。その条件は、他社と契約した裁縫本の出版を破棄し、東京書院から出すことであった。

そして「忘れ得ぬ人たち(その三)」として、「橋口景二と長谷川光利さん」に章が割かれていて、当時の専門学校と特価本業界の結びつきを示すものとして興味深いので、紹介してみよう。これは私以外に引用もされないであろうから、少しばかり長くなることを了承されたい。

 確か昭和六年だったと記憶しています。橋口景二という人が訪ねてきて、ざっと次のようなことを話しました。
 自分は、二十四才の時に鹿児島から上京して来ましたが、五十円をふところに、さてこれから何をしようか……と、新橋の駅であれこれ考えましたが、結局本屋に入って本の行商をすることを決心しました。ところがその時の五十円が、現在五百円になりました。(中略)。
 そこでフッと思いついたのは、(本の行商をしていると、和裁の本はむずかしくてよくわからないが、大妻コタカ先生のかかれたものはとても平易でわかりやすい)と、ほうぼうできかされたことでした。そうだここに目をつけてやれば何とかなる……と思って私は、その足ですぐ本屋に帰って、同じ勤め先にいる長谷川光利という人と相談して、二人で資金を出しあって出版屋をやるということにしました。こんな意味のことを話してゆかれたのです。
 後日、今度は長谷川さんが来られて、橋口さんと二人で出版屋を始めたので、裁縫の本を書いてくれないか、とおっしゃるので、私は快く承諾し、「印税はいりませんから、それだけ安く売って下さい」といって、五円で売るはずのものを三円五十銭で五十万冊売りました。それによろこびを感じたお二人から、ひきつづいて手芸や家事の本を書いてほしいと頼まれて書きましたが、いずれも三十万冊ずつ売れたということでした。

その他にも長谷川が他社から出している「大妻講義録」を買い受け、出版に至ったこと、儲けたお礼として千七百円包んできたが、それを長谷川の子供のための貯金にと返したこと、戦後になって、和裁、手芸、家事の本は焼けていなかったので、橋口が新聞広告をうったところ、現金での注文が多く入り、そのお礼のために家を建ててくれたことなども記されている。

このような大妻の、印税なしで三十万冊から五十万冊売れたという証言をどこまで信用していいのかわからないけれど、橋口と長谷川の出版社が研文書院で、彼女の著作が前述した二冊の『全書』であることは間違いないと思われる。確かに『現代裁縫全書』の定価は三円五十銭となっている。そして橋口は戦後に東京書院を立ち上げ、それらを再び刊行したのであろう。その発行者名橋口搏二は景二の息子だと考えられる。長谷川のほうはまったく音信が途絶えていたが、最近になって四谷で光文書院という出版社を経営していることを知り、連絡して会ったことを彼女は述べ、また橋口と長谷川の並立写真をも掲載している。

『全国出版物卸商業協同組合三十年の歩み』を確認して見ると、組合員として光文書院と東京書院新社があり、昭和三年に長谷川と橋口が共同経営で研文書院を設立したという記述に出合った。その後、長谷川が光文書院を創業し、橋口が引き続き経営したが、戦後を迎えて東京書院として再出発し、通販主体、職域販売の辞典、実用書類の出版社とあった。新社となったのは前回引用した事情によるという。

だがここで話を戻して、大妻の専門学校と研文書院の関係から推測すると、大学、高校、高等師範、師範学校と学校ヒエラルキーが形成され、それはそのまま出版社のヒエラルキーとの関係へともつながっていったのだろう。出版物で考えれば、医学書、法経書、文芸書、学参、児童書、実用書といったヒエラルキーが形成され、それに準じて出版社も位置づけられていたはずで、この問題は出版業界の現在に至るまでの関係を象徴し、呪縛していると見なしていいのかもしれない。

なお橋口と長谷川が勤めていた出版社は本連載250でふれた、これも特価本業界に属する玉井清文堂である。

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