長嶋有の『猛スピードで母は』は団地で暮らす母と息子の生活をテーマとしている。この小説を読みながら、私が思い浮かべたのは江藤淳の『成熟と喪失』における、安岡章太郎の『海辺の光景』への言及の一節である。そこで江藤は次のようなことを記していた。家族というものは「天皇制」とか「民主主義」とかいった公式の価値によって生きるのではなく、「母親のエプロンのすえたような洗濯くさい匂い、父がとにかく父としてどこかにいるという安心感」といったもの、すなわちそのようなイメージによって生きるのだと。
安岡の『海辺の光景』が発表されたのは一九五九年、江藤の『成熟と喪失』は六七年で、すでにほぼ半世紀前のことになる。それらに対し、長嶋の『猛スピードで母は』は〇二年であり、安岡の作品とは時代背景も家族状況も異なり、しかもこちらは母子家庭小説に他ならないし、江藤の一節に類する言葉も見当たらないけれど、そのような母に対する息子のイメージによって成立している。
そしてまた江藤は『成熟と喪失』に「“母”の崩壊」というサブタイトルを付し、高度成長期という農耕社会から工業社会へと向かう過程における、所謂日本の「母」の喪失を見ていたが、『猛スピードで母は』は八〇年代以後の郊外と消費社会で生きざるを得ない、現代の「母」のイメージをくっきりと浮かび上がらせているのではないだろうか。
それゆえにもはや「母」は「エプロンのすえたような洗濯くさい匂い」を発したりはしない。『猛スピードで母は』の始まりにあって、「母」は雪の季節を迎え、小学五年生の息子慎(まこと)に手伝わせ、自分の車のシビックのタイヤ交換をする場面が描かれている。「母」はジャッキとレンチを器用に使い、スパイクタイヤをはめこみ、タイヤの空気圧やナットのゆるみなどを点検している。そこは団地の駐車場で、その団地は小学校にあがる前に慎が強運に恵まれ、抽選のくじで当てた公団住宅であり、次のように説明されている。
団地はM市の海岸沿いの埋め立て地に建てられた五階建てでABC三棟、少しずれながら並んでいる。当てたのはC棟の四階の四号室だ。外壁は淡いクリーム色で屋根の色だけ赤青緑と色分けされている。
団地の側面の最上部にはそれぞれABCのアルファベットが黒ペンキで大きく描かれていた。その真下から地上二メートルぐらいのところまで梯子が取り付けられていた。
後半の部分が『猛スピードで母は』の物語展開に大きな役割を占めるので、省略せずに引用してみた。
(文春文庫)
このM市は北海道の南岸沿いの靴屋も書店も美容院もコーヒー店も「なんでも一つだけ」という小都市である。それでも郊外がロードサイドビジネス化していることがうかがわれる。母は東京で結婚に失敗し、幼い慎を連れ、M市から四十キロ離れたS市にある祖父母の家に転がりこんだ。二人は家の二階で、二段ベッドを使って暮らし、祖父はまだ現役で働いていたし、祖母が慎の面倒をみた。それで母のほうは、昼は保母の資格をとるために学校に通い、夜はガソリンスタンドで働いた。それからM市の団地に引越したのだが、保母の仕事は長続きせず、いくつかの職を経た後、市役所の社会福祉課で非常勤待遇で勤め、生活一時金の返済を促す仕事、「つまり借金取り」をしている。
タイヤを取り替えてから、二人は車で映画を見に出かけるが、その途中で母はアクセルを深く踏みこみ、前の軽自動車を抜き去りながら、「私、結婚するかもしれないから」といった。慎はいってみて変な感じだったけれど、やや遅れて「すごいね」と返事をした。
この母子の会話に象徴されるように、『猛スピードで母は』の物語は慎の眼差し、いわば小学生のローアングルな視点から捉えられ、進行していく。しかしそうでありながらも、その視線は母の行動のみならず、祖父母と母の関係、母の恋人、小学校やいじめ、団地の生活などが包括的に描かれ、それらはひとつとして無駄がない周到な配置となっている。それは慎と同学年で、同じ団地に住む「須藤君」との会話に凝縮されて表出しているように思われる。
はじめての下校時、団地がみえてきたところでついに「なんで話さないの」と尋ねられた。
「考えてるの」
「なにを考えてるの」
「いろいろなこと」少し迷って慎はいった。
「ふうん」ふうんと納得したので慎の方が少し驚いた。
ここにこの中編が常に「考えてる」子と「猛スピードで」車を運転するだけでなく、行動する母の物語であることが暗示されている。そして母にとって自分の存在が何であるのかを問う子の物語に他ならないことも。そのようにして、これまでの母の再婚に関する祖父母との経緯と事情、祖父母とかつての生活、外国にいる慎一という母の結婚相手とその出現、彼と慎の水族館行きと観覧車体験、母と慎一の旅行と事故、それに続く二人の破綻、祖母の交通事故による死と葬式、学校でのいじめなどが物語の流れに添って、過不足なく挿入され、特有の「母」のイメージが力強く立ち上がってくる。それは唐突ながら、映画『エイリアン』や『ターミネーター』に登場する、戦うヒロインをも想起させる。
そのいくつもを挙げることは避け、ひとつだけに集約してみる。そうしたほうが彼女のキャラクターをよく伝えられるように思われるからだ。その圧巻は団地の駐車場で迎える、ほぼ最後のシーンであろう。二人は夜更けにS市を出て、まだ暗い早朝に団地に着いたのだが、母はキーを差したまま車のドアを閉めてしまった。団地のカギも助手席においたままで、部屋に入れないのだ。しかしその日、慎はかつて慎一がくれた手塚治虫のサイン本を学校へ持っていかないといじめられるので、それも手提げに入れ、団地の玄関のところに置いてあったのである。霧が出てきて団地全体を包み始めていた。そのような霧の中で、母はブーツとストッキングを脱いで裸足になり、コートのボタンも外し、先に引用した団地の壁に取りつけられた梯子を、四階の部屋のところまで登っていくのだ。そうして母は軽業のようにベランダへ移り、自分の部屋にたどりつこうとしていたが、「慎は母がどこかに消え去ってしまう」のではないかという気がした。
しかし母が自分の名前を呼び、突然目の前に現われた時、その手には手提げ袋とキーホルダーを持っていた。ここに母はヒロインとして、失われたモノと救いの品物を発見し、手に携えて帰還したことになる。そしてクロージングにおいて、二人はM市の団地から一人暮らしの祖父の家に引越しすることが決まり、それは慎の転校をも意味していたが、母の冒険と帰還を通じて、彼が成長したことを暗示させてもいる。国道を走っていると、母が好きなワーゲンが十台も現われ、彼女はそれをすべて追い抜いた。その行為は母と子の新たな生活へのイニシエーションであるように思える。
長嶋有はブルボン小林名で、マンガ評論『マンガホニャララ』(文春文庫)などを刊行していることもあってか、異例なことに自らの小説を原作とした、各漫画家によるコミカライズ作品集『長嶋有漫画化計画』(光文社)が編まれている。それに参画しているのは萩尾望都を始めとする十四人の漫画家たちである。長嶋の小説を多く読んでいるわけではないので、判断は保留するしかないが、それこそ彼の物語は「コミカライズ」に向いているのだろうか。
そこでは島田虎之介によって『猛スピードで母は』が漫画化されている。島田は『ダニー・ボーイ』や『トロイメライ』などに見られるように、映画とコミックを合体させた手法を駆使する漫画家で、『長嶋有漫画化計画』の中にあって、私見では最も「コミカライズ」に成功した作品となっている。それは四十一ページ、3回立てで、第3回は私が言及し記述した、ほぼ最後の団地の壁を登るシーンに大半が当てられているといっていい。そのシーンがコミックとして描かれ、提出されることで、当然のことながら、ビジュアルにして臨場感をもって、団地そのものの姿と母の行為がリアルに迫ってくるといえよう。
小説にしてもコミックにしても、『猛スピードで母は』において、郊外や消費社会が直接的に描かれているわけではないが、この作品の主要な舞台が郊外に位置する団地なのは明白であり、現代の「母」のみならず、新しい母子家庭小説を表象していると考え、ここで取り上げてみた。