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古本夜話560 ルナン、綱島梁川、安倍能成訳『耶蘇伝』

前々回の井上哲次郎の『釈迦牟尼伝』が、マックス・ミューラーを始めとする六人の西洋の仏教と釈迦研究者の影響下に成立していることを既述しておいた。そこには仏教や釈迦の研究者ではないけれど、もう一人の名前を付け加えることができる。それはルナンであり、「序論」に「其耶蘇の伝(Vie de Jésus,P.101−102)」が原文とともに引かれている。[f:id:OdaMitsuo:20150908210517j:image:h110]

それは『釈迦牟尼伝』の刊行が明治三十五年で、ルナンの『耶蘇伝』がまだ翻訳されていなかったからだ。同書が翻訳刊行されたのはそれから六年後の明治四十一年のことで、綱島栄一郎=梁川訳述、安倍能成訳補により、版元は日高有倫堂である。この出版社に関しては、本連載398「有隣堂と日高有倫堂」で取り上げているので、今回はルナンの『耶蘇伝』だけにふれてみたい。

その前に梁川についてラフスケッチしておけば、現在は『新島襄・植村正久・清澤満之・綱島梁川集』(『明治文学全集』46、筑摩書房)に収録されているが、彼は同巻所収の「病輭録(驚異と宗教)」や「予が見神の実験」などの神秘的宗教体験によって一世を驚倒させた。そして熱狂的風潮を喚起させ、明治三十年代の思想界を風靡し、自我の懐疑煩悶の救抜を宗教に求めた多くの哲学青年の信奉者を得たとされる。その一人が訳補を担った安倍であり、また西田哲学や神秘的な象徴詩への影響も指摘されている。
明治文学全集 46
その梁川が手がけたルナンの『耶蘇伝』の巻末広告に見られる内容紹介を引いてみる。

 此書教主生涯、其懐きし(ママ)神の国の思想、天父の観念を叙べ、奇跡を論ふ、他の宗教との関係を明にし、其国家観社会主義観また此間に隠見す、自由詩究の精神一貫して批評の鋭刃触れざる所なく、此が為め一時欧米基督教界を震動して顔色失はしめたりと雖、世界史上に於ける耶蘇の位置は寧ろ之によりて確められたりと言ふべきなり。梁川先生は爛綯瑰麗。現代独歩の筆を以て此書を翻して世に問わる。世界の認めて耶蘇伝の白眉となすものと模範的美本とは之によりて吾邦文壇に供へられむとする也

明治末期における晦渋な紹介と要約であり、翻訳も同様なので、ここで現在的な『イエス伝』の内容紹介を試みてみる。ルナンは自由思想の精神を有する実証主義者、科学者として、彼独自のイエス像を提出している。それは「比類なき人間」としてのイエス、それでいて「全歴史が、イエスなくしては不可解なものであること」を示さんとしている。これはその「序論」に見える言葉だが、残念ながら『耶蘇伝』では省略されているので、津田穣訳『イエス伝』によっている。それはさておき、そのような宗教的天才としてのイエスが描かれていく。そのためにすべての超自然的奇跡は否定され、代わりに弟子や女性たちに取り囲まれた人間としてのイエスの姿が鮮明に浮かび上がる構成となり、文学的イエス伝として、キリスト教のみならず、広範な影響を及ぼし、それは日本でも同様だったと思われる。
イエス伝

第二帝政下の一八六三年に出版されたルナンの『イエス伝』は、カトリック側に大きな憤激とともに影響をもたらしたで、マルタン・デュ・ガールの『ジャン・バロワ』(山内義雄訳、『世界文学全集』第2期19所収、河出書房)において、ジャンが司祭との会話を通じて、カトリックから自由思想家へと傾倒していくプロセスが伝えられている。一九一三年に発表されたこの作品は、普仏戦争敗北後の一八七四年から始まり、『種蒔く人』やドレフュス事件を主たるテーマとする小説で、『チボー家の人びと』(同訳、白水社)へとつながるものである。
チボー家の人びと

ただ綱島梁川と安倍能成訳『耶蘇伝』が具体的にどのような影響をもたらしたのかはまだ確認できていない。しかし大正以後のキリスト教、仏教、新興宗教の偉人や開祖たちのプロフィル造型やプロパガンダに大いなる刺激を与えたことは確実だと思われる。それは大正に入って、版元の日高有倫堂は退場を余儀なくされたようだが、その後も本連載227の三陽堂や三星社から、譲受出版のかたちで出され続けていたのである。

しかも『耶蘇伝』の「凡例」や「綱島梁川重訳」の表記に示されているように、これは「ウイリアム、ジー、ハッチソン(William、G.Hutchison)氏の“Life of Jesus ”(1897)」によりての重訳である。「序論」が欠けているのは英訳がそうだったからで、これは未見だが、大正十三年になってフランス語からの広瀬哲士訳『耶蘇』、同十五年には同じくルナンの『使徒』も、東京堂の「世界名著叢書」として刊行される。そして昭和十五年には先述した津田穣訳の岩波文庫版『イエス伝』も出版に至っている。したがってその翻訳出版史は明治、大正、昭和と途切れることはなかったし、読まれ続けてきたことも物語っていよう。おそらくその影響は、キリストに関連する伝記や文学作品を始めとして、戦後の児童書などのキリスト物語にも後半に及んでいたはずである。
Life of Jesus

さらにこれも戦後に出されたブルトマンの『イエス』(川端純四郎他訳、未来社)、ドレウスの『キリスト神話』(原田瓊生訳、岩波書店)、あるいは吉本隆明の「マチウ書試論」(『英術的抵抗と挫折』所収、未来社)ともリンクしている。それらのこともあり、もう一編、今度はルナン自身のことにふれてみたい。

イエス

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