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古本夜話698 『岩波哲学小辞典』、伊藤吉之助、仲小路彰


前回の仲小路彰のことだが、『砂漠の光』をきっかけにして、出版の世界に足を踏み入れたようで、その痕跡を残している一冊がある。それは岩波書店の四六判『岩波哲学小辞典』に他ならない。これは昭和五年に初版、十三年に増訂版が出され、戦後に至るまでのロングセラーとなっていて、私が所持しているのは二十五年第八刷である。
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『同辞典』は「編輯者」による「第一版序」に述べられているように、やはり岩波書店が大正十一年に刊行した四六倍判の『岩波哲学辞典』をそのターム選択の範としている。こちらは宮本和吉・高橋穣・上野直昭・小熊虎之助編だが、『同辞典』の場合、増訂版も含めて、主たる編輯者は伊藤吉之助であるけれど、それは奥付の編者名として、ひっそりと記されているだけで、「編輯者」として、「第一版序」と同様に「第二版序」でも、その名前を出していない。

それならば、この伊藤はどのような人物なのかということになるのだが、「第一版」の「編輯員」八人の中に、伊藤と並んで布川角左衛門の名前が見えているので、このメンバーは岩波書店の編集者も加わっているとわかる。しかし『岩波書店七十年』に収録の社員リストに伊藤は見出せない。そこで同書を細心にたどってみると、昭和四年四月の出来事として、次のような記述に出会った。

 4・1 《思想》4月号より復刊―従来は岩波書店編集となっていたが、実際には初期のころ和辻哲郎氏、その後高橋穣氏・伊藤吉之助氏等が顧問として編集を指導していた。復刊を機会に編集者を明示することとし、和辻哲郎・谷川徹三・林達夫の3氏が担当した。

これによって、『岩波哲学小辞典』が『思想』を背景とし、その顧問編集者を中心にして企画編集されたこと、それを示すように、「第一版序」に林達夫と高橋穣への謝意が述べられていたことを了承すると同時に、伊藤も彼らの近傍にあったことを教えられる。ただそれ以上に伊藤のことはたどれず、そこで切れてしまっていた。それが明らかになったのは、荘内日報社のHP「郷土の先人・先覚」41に彼の立項を見つけたことによっている。

それによれば、伊藤は明治十八年山形県生まれ、明治四十二年東京帝国大学文学部哲学科卒。同期生には安倍能成、小山鞆絵、宮本和吉たちがいた。大正九年にドイツに留学し、十二年に帰国し、東京帝国大学講師、昭和五年に教授となる。戦後は北海道大学文学部長、中央大学文学部教授として、哲学専攻を開設し、各大学にその礎をつくったとされる。著書は『最近の独逸哲学』(理想社、昭和十九年)、訳書はパウル・ナトルプ『カントとマールブルク学派』(岩波書店、昭和三年)、編纂として、まさに『岩波哲学小辞典』も挙げられていたのである。

この立項によって、伊藤が同期の安倍を通して岩波書店とつながり、宮本との関連で、『岩波哲学辞典』から、『岩波哲学小辞典』の編集に携わっていったことが推測できる。また戦後の各大学での哲学専攻開設といったエピソードは、伊藤が表に出ることのない「編輯者」的パーソナリティの持ち主であったことを伝えているような気がする。
 
伊藤のことが長くなってしまったが、ここで仲小路彰にもふれなければならない。彼はこの『岩波哲学小辞典』の第一版「項目担当者」五十三人のうちの一人に挙げられている。ここには本連載でも取り上げてきた飯島忠、古在由重、三木清、戸坂潤などもいて、昭和初期において、岩波文庫の創刊とともに、岩波書店と併走していく知識人とアカデミズム人脈が一堂に会していることになろう。この時点で、仲小路もそのような文化的な環境の中にあったと見なすべきだろう。

ただ伊藤が「第一版序」で断わっているように、「各項解説者の署名を省略せること」によって、各項の担当者名は明らかではない。しかし仲小路が『砂漠の光』の上梓を機として、『同辞典』に招聘されたとすれば、「イスラム教」や「マホメット」は彼の手になると見なしてしかるべきだろう。後者の立項を引いてみる。

 Mahomet マホメット 又 Mohammed,Mahammed,或は Muhammand.570頃―632.イスラム教の祖。アラビアのメッカの人。四十歳の頃、宗教的回心によって神アラーの啓示に接し、それより新宗教を説き始めた。併しその故郷にて容れられず、弟子Abu Bekr等と共にメディナに遁れた(662七月十五日)。これをHegira(Hijira)   と称し、後イスラム教の紀元とされた。メッカの町は八年後に武力により征服され、在来の宗教儀式は廃され、新宗教の中心的聖地とされた。彼の教は聖地コーランに記されてゐる。(後略)

さらに「アラー」や「コーラン」も引いてみたい誘惑に駆られるけれど、ここでは「マホメット」だけにとどめておこう。

『岩波哲学小辞典』が戦後になってもロングセラーであり続けたことと同様に、仲小路のイスラムに関する「砂漠の光」的言説もまた、川内康範原作のテレビドラマやコミックの『アラーの使者』(九里一平画、MSS)として延命していったのである。
アラーの使者


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