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古本夜話699 仏教経典叢書刊行会と立川雷平

 もう一冊、大正時代の仏教書が残されているので、これもここで書いておこう。それは『現代意訳維摩経解深密教』である。同書は 著訳者を岩野真雄とし、仏教経典叢書刊行会から出版されている。

 本連載513で『維摩経』については既述しておいたが、同じく『解深密教』も大乗仏教経典のひとつである。しかしサンスクリット本は散逸していることもあり、この「意訳」は漢訳に基づいている。著訳者の岩野は拙稿「青蛙房と『シリーズ大正っ子』」(『古本探究2』所収)でふれておいたように、『大正・三輪浄閑寺』を著した岩野喜久代の夫である。しかも彼女は東京府女子師範を卒業し、東中野の桃園小学校に貴人赴任し、給料を得るようになり、小遣いのほとんどを書籍購入に向けるのだが、その中に「現代意訳仏教経典叢書」も含まれ、岩野との結婚へと結びついていったのである。
古本探究2

 それは彼女が、これも本連載510の渡辺海旭の増上寺での講演を聴聞するようになったことがきっかけで、海旭門下の四天王と称せられた青年僧侶の一人が「現代意訳仏教経典叢書」の著訳者岩野真雄であった。彼は海旭の仏教文書伝道の志を継承し、大正十五年に大東出版社を興し、夫人とともに『国訳一切経』を始めとする仏教書の出版に携わっていくことになる。またこれも同429でも取り上げているが、後に青蛙房を創立する岡本経一の編集による「大東名著選」も刊行し、その関係で『大正・三輪浄閑寺』が出版されるのである。

 八木書店の『全集叢書総覧新訂版』を確認すると、岩野夫妻を結びつけた「現代意訳仏教経典叢書」は全十二巻予定だったが、第一巻が未刊のままで、大正十年に十一冊が刊行され、翌年にその新版が甲子社から出されたことになっている。それらのことはともかく、この「叢書」で留意すべきは、同刊行会の住所が麹町区山元町の新光社内で、発行者が立川雷平と記されていることである。ここで、同刊行会、新光社、立川が三位一体のかたちでリンクし、仲摩照久と新光社の明らかにされていないバックヤードをうかがわせている。

 立川の名前はかつて一度だけ目にしていて、それを拙稿「原田三夫の『思い出の七十年』」(同前)に挙げておいたが、もう一度引用してみる。

 そのころ麹町の半蔵門近くに、新光社という出版社があった。満洲で新聞をやっていた立川雷平という豪放な男が資本を出し、仲摩照久という作家崩れが事務をやっていた。仲摩はその前に京橋区の桜橋のあたりで「美人画報」や「飛行少年」をやっていた。新光社では「世界の少年」を出し、大泉黒石の「老子」、友松円諦の釈迦の戯曲、推尾弁匡の宗教書など、仏教、思想関係のものも出版していたが、科学物に目を付け私に書かせようとした。

 その原田の「科学物」が、前々回の『砂漠の光』の巻末広告にあった『星の科学』『海の科学』『山の科学』だとわかる。また同様に掲載の大泉の『老子』は本連載171で既述しているし、「友松円諦の釈迦の戯曲」が『地に悩める社会』、「推尾弁匡の宗教書」が『仏教概論』『人間の宗教』をさしていると了解される。

 これらの宗教書と仏教経典叢書刊行会と立川の関係を考えてみると、新光社の宗教書出版と高楠順次郎の『大正新修大蔵経』企画は、仲摩と高楠の関係から生まれたとみなしてきたが、立川が介在することによって発生し、企画も進行していったように思える。このような一大プロジェクトはまさに「立川雷平という豪放な男が資本を出し」てくれないと、成立しないことも確かだからだ。とすれば、新光社が関東大震災によって大きな被害をこうむり、『大正新修大蔵経』の企画が破産してしまったのではなく、豪放な資本家の立川のほうが関東大震災によって没落してしまったのかもしれない。

 実際にこれも「高楠順次郎の出版事業」(「古本屋散策」47、『日本古書通信』二〇〇六年二月号所収)、及び本連載503でもふれていることだが、高楠は独力でそのプロジェクトに挑み、生涯にわたって大きな負債を背負うことになったのである。

 また仲摩に関して本連載695でも、彼が出版プロデューサー的な立場にあったのではないかとも既述してきたけれど、原田が述べているように、本領は『美人画報』や『飛行少年』などの雑誌編集にあったのかもしれない。その優れた雑誌編集の力量が大きく発揮されたのが、円本の『万有科学大系』などだったの見なすことができる。新光社を吸収合併することになる誠文堂の小川菊松は、そうした仲摩の出版者としての資質をよく見抜いていたようで、『出版興亡五十年』においても、仲摩に関して、前述の二誌に加えて、『科学画報』や『趣味の無線電話』、さらに『少年グラフ』や『世界知識』の創刊の成功をたたえ、書籍ではなく、雑誌出版の才を買っていたことを想起させる。そのように考えてみると、仏教書出版に関連していたと思われる立川のことに、さらなる興味をそそられる。その人物に関しても、もう少し探索を続けてみよう。
出版興亡五十年


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