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古本夜話708 朝倉書店、「現代哲学叢書」、斎藤晌

 大東亜戦争下においては出版社も総動員体制となり、それは哲学の分野にも及んでいった。その典型を朝倉書店の「現代哲学叢書」にも見ることができる。

朝倉書店は同文館出身の朝倉鑛造によって昭和四年に創業された賢文館の後身で、教育書や農業書の出版から始め、本連載680の養賢堂と並ぶ農業学術書の版元であった。その朝倉書店が昭和十六年になって、どのような経緯と事情で「現代哲学叢書」の刊行に至ったのかは不明だが、それは全二十六巻に及ぶ本格的なシリーズだといっていい。

 このうちの何冊が出されたのかも、書誌研究懇話会編『全集叢書総覧新訂版』にも見えていないので、そのラインナップを挙げてみる。ただしナンバーは便宜的にふったものである。

1 佐藤通次 『皇道哲学』
2 大串兎代夫 『国体学』
3 磯部忠正 『神話哲学』
4 高山峻 『哲学概論』
5 高成喜馬平 『科学概論』
6 小野勝久 『数理哲学』
7 加茂義一 『技術論』
8 豊川昇 『学問論』
9 山本修 『形式の論理学』
10 篠原寛二 『倫理学』
11 須藤新吉 『心理学』
12 田中晃 『生哲学』
13 今井仙一 『人間学』
14 鬼頭英一 『存在論』
15 佐竹哲雄 『現象学』
16 山際靖 『美学』
17  〃  『文芸学』
18 結城錦一 『実験心理学』
19 三井為友 『教育哲学』
20 大串兎代夫 『政治哲学』
21 難波田春夫 『経済哲学』
22 片山正直 『宗教哲学』
23 小糸夏次郎 『儒教哲学』
24 圭室諦成 『仏教哲学』
25 大坪重明 『ナチス世界観』
26 斎藤晌 『日本的世界観』

 残念ながら入手しているのは1の『皇道哲学』だけだが、その巻末には朝倉鑛造による「現代哲学叢書発行に際して」が掲げられ、それは「明治、大正、昭和を通じて現在ほど思想の混乱せる時代は無い」と始まり、次のような文言が置かれている。

 惟府に世界新秩序の一翼として東亜共栄圏を樹立するてふ八紘一宇の聖業を翼賛すべく、日本国民の一人々々が臣道実践、職域奉公に粉骨碎身して、一億一心高度国防国家体制に向つて突進しなければならぬということは今更吾人の喋々するを要せざるところである。(中略)弊店は一介の商売に過ぎすと雖も、また新体制の捨て石の一つとして転換期の文化奉仕に盡悴するの微衷無くんばあらず、ここに『現代哲学叢書』刊行の計画を決意するに至つた。(後略)

 この「同発行に際して」の次ページに前掲の全二十六巻が並んでいるのである。それによれば、「責任編輯者」は26の著者の斎藤晌とされている。この斎藤は本連載596などの唯物論研究会のメンバーで、『近代日本社会運動史人文大事典』に立項があるが、それは長いので要約して抽出してみる。
近代日本社会運動史人文大事典

 斎藤は昭和七年に唯研の発起人兼幹事として参加し、哲学関係部門の責任者となり、スピノザ研究を発表した。しかし唯研が弾圧され、それが身辺に及ぶことを懸念し、脱会した。そしていち早く転向し、反動、反共主義の皇道哲学者としてジャーナリスティックに活動し、天皇制ファシズム遂行の国策路線を哲学的、イデオロギー的に根拠づける役割を果たしたとされる。その極めつけの著書が他ならぬ『日本的世界観』だったようだ。とすれば、この「現代哲学叢書」の企画、編集、執筆は斎藤のそのような転向後の総仕上げだったことにもなろう。戦後は漢詩学者として東洋大学、明治大学教授を務めた。

 1の佐藤の『皇道哲学』も「現代哲学叢書」を表象するようなタイトルであり、斎藤の『日本的世界観』と通底していると見なしていいだろう。その「緒言」に「皇道は、日本民族の祖先以来の生活原理」「実践道としての神道」で、「本書は、わがこの惟神の大道に一の論理的地盤を与へて、西欧文化に感応してみずからの中の理の綿を開展しつつある現代の歴史的使命を、いささか果さんことを企図したもの」とあるのはそのことを伝えていよう。ちなみに佐藤は『現代日本朝日人物事典』によれば、哲学者、ドイツ語学者で、「天皇陛下万歳」に収斂する『皇道哲学』を刊行し、文部省の国民精神文化研究所員となり、紀平正美、田中忠雄たちと西田哲学、京都学派を激しく批判したとされる。戦後は亜細亜大学教授や皇学院大学長を務めた。

 紀平の名前が挙がっているので付け加えれば、「現代哲学鵜叢書」の推薦者として彼に桑木巌翼、西晋一郎、田辺元、伊藤吉之助、鹿子木員信も名を連ねていて、ちなみに監修者名は本連載558の井上哲次郎なのである。また同698の伊藤吉之助のことも考えれば、宗教学者、哲学者、唯物研究会の転向者、天皇制ファシズムに抗するイデオローグたちが大東亜戦争下にあって、なだれを打って、皇道に基づく「東亜共栄圏を樹立するてふ八紘一宇の聖業を翼賛すべく」一堂に会していたといっていい。そうした事実を「現代哲学叢書」は浮かび上がらせているのである。


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