出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話810 フランス『舞姫タイス』と林達夫『文芸復興』

 前回の全集の中にもあったアナトール・フランスの『舞姫タイス』は次のような物語である。
f:id:OdaMitsuo:20180730143240j:plain:h120(『舞姫タイス』、白水社)

 この長編小説は四世紀のアレクサンドリアが栄えた時代を背景としている。原始キリスト教の苦行僧たちの若き指導者パフニュスは世俗生活の頃に見た舞姫タイスを思い出す。そして彼女を悪の生活から清めようとして、アレクサンドリアに向かい、ようやく説得して尼僧院に入れる。だがその時から彼はタイスの魅力に取りつかれ、それを忘れるために苦行に励み、その名は高まるけれど、悩みは募るばかりであった。そこにタイスが死にかけているという知らせが届き、かけつけると、彼女は信仰のうちに平安な死を迎えようとしていた。そこでパフニュスは叫ぶ。死んではならない。神も天国もつまらない、地上の生命と生あるものの恋だけが真実だと。その彼のわめき立てる形相を見て、尼僧たちは「吸血鬼!」と叫び、逃げ散ってしまう。

 この『舞姫タイス』はフランスの懐疑主義が最も鮮烈に表出した作品とされ、そこにこめられたアイロニーと哀れみを通じ、悲劇を同時に喜劇ともならしめている。そのトラジコメディの進行に寄り添うように、ナイル河や砂漠の風景が描かれるとともに、タイスの美しさとそれが衰えていくことを恐れる心理、アレクサンドリアの哲学者たちの議論などが書きこまれ、フランスの全貌を示す代表作ともされ、オペラ化されてもいる。この『舞姫タイス』に関する一編を書いたのは林達夫で、彼はその「『タイス』の饗宴」を、昭和八年に小山書店から上梓した『文芸復興』に収録している。
f:id:OdaMitsuo:20180730170818j:plain:h120(『文芸復興』、小山書店版)文芸復興 (中公文庫版)

 私が所持するのはその小山書店版ではなく、戦後の二十二年の角川書店版である。林はその「あとがき」で、ブルクハルトが自分に与えた影響を語り、その『イタリアにおけるルネサンスの文化』と『チチェローネ』が「啓示の書」「愛読の書」だったと述べた後、「私を文学的に育ててくれた、そしてその人の影響もこの書物のなかに消し難い痕跡をのこしてゐる私の文学の教師アナトール・フランスに対する同じおもひと共に……」と結んでいる。つまりここで林は『文芸復興』という一冊が、ブルクハルトとフランスンの大いなる影響の下に書かれたと告白しているのである。

 それならば、「哲学的文学について」とのサブタイトルが付された「『タイス』の饗宴」とはどのような一編なのか、それを読んでみよう。それはフランスの古本屋に関するエピソードから始まっている。フランスは夫人と食事がてらにセーヌ河岸の古本屋に立ち寄り、そこで古本をあさっていて、一フランの均一本の中に『タイス』の初版を見つけ、「豚に真珠を与へるとは」とフランスは慨嘆した。「その初版の『タイス』には曾て彼自身の手で誰かに献著して書かれた文字がご丁寧に消されてあつた」ばかりでなく、ページがギリシアの哲学者たちの議論に当たる「饗宴」の前までしか切られておらず、ここで「食欲」をなくしたとわかったからだ。

 だが夫人はいう。その人はあなたの「料理」が好きではないし、とりわけ「饗宴」は「デリケートな胃袋」「食通」のために作られているんですもの。それに対して、フランスはここだけの話だが、「饗宴」は「プロシャールのだよ!」と返している。

 林はこのエピソードの出典がブルッソンのAnatole France en pantoufles (『普段着のアナトール・フランス』)だとし、『タイス』が「霊肉の闘争を描いた近代文学中で最も皮肉な『哲学的コント』」、その圧巻が「饗宴」であると見なされているのに、ここでそれがプロシャールだと告白しているのだと。さらに林はこれを読み、フランスが『文学生活』(朝倉季雄他訳、白水社、昭和十二年)の中で、プロシャールの名著『ギリシア懐疑学派』を推奨し、その後で「自分の最近発表した小説の中には若しプロシャールのこの書を読まなかったら書かなかった数十ページがある」と書いていたことを思い出した。そしてそのプロシャールの「哲学種」が「饗宴」という「最も甘美な御馳走にかはつたこと」は、フランスが「並々ならぬ腕前を持つた哲学的料理人」だったことの証明となる。またその注で、プロシャールの『プラトン哲学に於ける生成』(河野与一訳、岩波書店)の刊行が付記されている。

 それから林はその「哲学料理の元祖」がプラトンで、その他ならぬ『饗宴』に言及し、そこにギリシアの思想家、政治家の精神的遺産を集積することで、「彼の時代の精神的生活の総決算を企てた」と論じるに至る。そしてこれは私見だが、『文芸復興』の最初に置かれた「『みやびなる宴』」へとリンクしていくのであろう。林はここで章タイトルのFêtes Galantesと題されたワトーの絵画、ヴェルレーヌの詩、ドビュッシーの音楽という三つを論じていくが、これも他ならぬ「饗宴」という殊になろう。それゆえに『タイス』は四つ目の「饗宴」としてあったと考えられる。

 なお『タイス』は水野成夫訳『舞姫タイス』の他に、岡野馨訳『女優タイス』(新潮文庫、昭和十三年)などが刊行されている。

舞姫タイス(水野成夫訳、白水社)舞姫タイス (岡野馨訳、角川文庫)


[関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら