前回に続いて、この際だから児童書にも言及してみる。『新潮社七十年』において、昭和十年に刊行された山本有三編「日本少国民文庫」全十六巻は「新潮社の誇るに足る出版」として、その一章を当てている。だがそれらは全巻の書影が見えているだけなので、「新潮社刊行図書年表」をたどり、まずこのラインナップを示そう。ただ現実的にはこのリストどおりに刊行されなかったようだ。
1 山本有三 | 『心に太陽を持て』 |
2 廣瀬基 | 『発明物語と科学手工』 |
3 山本有三選 | 『世界名作選(一)』 |
4 菊池寛 | 『日本の偉人』 |
5 西村真次 | 『日本人はどれだけの事をして来たか |
6 石原純 | 『世界のなぞ』 |
7 下村宏 | 『これからの日本これからの世界』 |
8 山本有三選 | 『日本名作選(一)』 |
9 飛田穂洲、豊島与志雄 | 『スポーツと冒険物語』 |
10 恒藤恭 | 『人間はどれだけの事をして来たか(1)』 |
11 山本有三選 | 『世界名作選(二)』 |
12 山本有三 | 『人類の進歩につくした人々』 |
13 水上瀧太郎 | 『人生案内』 |
14 石原純 | 『人間はどれだけの事をして来たか(2)』 |
15 里見弴 | 『文章の話』 |
16 吉野源三郎 | 『君たちはどう生きるか』 |
(新編日本少国民文庫)
これは山本有三が著者や選者として、五冊担当していることからわかるように、山本が企画した叢書であった。山本は新潮社が大正十三年に創刊した『演劇新潮』の編集主任を務めたことで、それは翌年廃刊となってしまったけれど、新潮社との関係が深くなっていた。『新潮社七十年』によれば、次のような事情と経緯によっていた。まず山本は中学生のわが子に読ませるべき書物が乏しく、俗悪な伝記類ばかりであることを痛感するに至っていた。
もともと教育者としての素質に富んでいる山本は、このような俗悪な読物から子供たちを守り、次代のすぐれた日本国民を育成するために、彼自身の手で真に少年少女の精神の糧になるような書物を作成することを決心した。(中略)
まず彼の信頼する吉野源三郎を編集主任とし、吉田甲子太郎、大木直太郎、石井桃子たちをそれに参加させて、綿密なプランを作り上げた。少年少女たちの胸にひびく感動的な読物を与えること、彼らに世界史的な見方を教えること、進歩的なものの見かた、考えかたを教えて人類の将来に大きな希望を抱かせること、などが基本的な方針であった。
また菊池寛や豊島与志雄も著者として加わっているだけでなく、山本の求めに応じ、様々な助言をしていて、装丁は恩地孝四郎で、「この種の読物としてはまさに画期的な出版であって、識者の好評を博し、売行も良好で、度々版を重ねた」とされる。
この「日本少国民文庫」の現物は入手していないが、平成十年に復刊された3の『世界名作選(一)』が手元にある。これは世界文学アンソロジーで、昭和十年代初頭を飾る記念すべき一冊かもしれない。英米、ロシア、ドイツ、フランス文学が詩から小説までセレクトされて編まれ、それでいてエーリヒ・ケストナーの『点子ちゃんとアントン』だけは全訳が収録されている。私はこれを岩波書店の『ケストナー少年文学全集』の一巻として読んでいるが、ここにすでに訳されていたことを初めて知った。また本連載809などでふれてきたアナトール・フランスの「母の詩」の岸田国士訳、ロマン・ロラン「ジャン・クリストフ」の豊島与志雄訳もあり、何とカルル・ブッセの詩「山のあなた」の上田敏訳も見開き二ページを使って収録されている。「山のあなたの空遠く/「幸(さいわい)」住むと人のいう。/噫(ああ)、われひとと尋(と)めゆきて/涙さしぐみかえりきぬ。/山のあなたになお遠く/「幸」住むと人のいう」。
これは明治三十八年の上田敏訳詩集『海潮音』(本郷書院)に収録されたものだが、上田は大正五年に亡くなっていることからすれば、ここで「山のあなた」は「日本少国民」の詩としてあらためて召喚されたということなのであろうか。
(日本図書センター復刻)
そしてまたトルストイの中村白葉訳「人は何で生きるのか」は、16の吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』のタイトルへともリンクしていったにちがいない。その刊行は昭和十二年で、支那事変が起き、国家総動員法の公布も迫りつつあった。そのような戦時下において、「少国民」たちは「山のあなた」をどのように読んだのだろうか。
(新編日本少国民文庫)
それに加えて、吉野の著書はマガジンハウスによって『漫画 君たちはどう生きるか』としてコミック化され、現在、二百万部を超えるベストセラーになっている。マガジンハウスは平凡出版時代には『ブルータス』で「ぜいたくは素敵だ」という特集を組んだりして、いわば遊び続けることをモットーにしてきた版元だった。それが一転して、『漫画 君たちはどう生きるか』を刊行し、ベストセラーとなっているのは、そこに時代の逆説を見るしかないように思われる。かつてはその先に大東亜戦争が待ち受けていたように、現在の果てには何が起きようとしているのだろうか。
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