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古本夜話891 グロスリエ『アンコオル遺蹟』

 前回、ドラポルトによるアンコール・ワットに関する描写を引いておいたが、他あらぬその写真を箱の装丁に用いた一冊がある。それはヂヨルヂユ・グロスリエの、やはり三宅一郎訳『アンコオル遺蹟』で、昭和十八年に新紀元社から刊行されている。

 このグロスリエは藤原貞朗『オリエンタリストの憂鬱』において、ジョルジュ・グロリエとして言及がある。グロリエは植民地官吏の息子で、一八八七年プノンペンに生まれたカンボジア・フランス人第一世代に位置づけられる。パリの国立芸術学校を出て、再びインドシナに渡り、植民地画家として、アンコール遺跡をモチーフにしたポスターや切手を手がけ、一九二〇年にカンボジア芸術局長に就任し、カンボジア美術館を開館している。また彼はインドシナ研究のために設立されたフランス極東学院の初期メンバーでもあった。その芸術局長としての活動は四二年まで続き、植民地カンボジアの文化政策は彼の手にほぼ独占的に委ねられていたとされる。しかし第二次世界大戦中に退官を迎える中でもプノンペンにとどまり、日本によるカンボジア支配下にあって、反日運動に加わり、日本の憲兵隊の手に落ち、四五年に獄中死したという。
オリエンタリストの憂鬱(『オリエンタリストの憂鬱』)

 これらのグロリエ=グロスリエ(以下グロリエ)のプロフィルは『アンコオル遺蹟』には記されていないので、このような経歴の人物によって、同書が書かれたとわかる。菊判上製、函入、二〇五ページにはアンコール・トムのバイヨンを始めとする原色版四枚、図版一一六と付図六が添えられ、壮観というしかない。まさに戦時下の豪華本と称していいと思われる。それを裏づけるように、七円三十銭という高定価になっているし、『アンコオル遺蹟』の記述そのものも、専門的にしてガイドも兼ねる啓蒙的な面も備え、この時代の最も優れたアンコオルへの誘いの書を形成していよう。

 グロリエはアンコオルという言葉の意味を説明するところから始めている。それはサンスクリット語のナガラ(首都)がカンボジア語に訛り、口調よくなったもので、訳者の注によれば、nagara → nokor → ongkor,angkor となったという。この言葉をシンボルとして、九世紀から十三世紀にかけて、インド宗教がこの都府の城壁の中で異常に発展し、アンコオルは神秘の霧から浮かび上がり、光り輝き、そうしてまた少しずつ神秘の中に包まれていった。グロリエは記している。

それは、発展の途次であつたか、爛熟の結果であつたか、とにかくこの現象の過程に於て異常な事業がなし遂げられた。都には二十の伽藍が建立され、そのために山となす砂岩が優れた装飾家たちによつて彫刻された。アンコオルを中心に、国道は涯しなく星状に放射されて、八百の聖堂寺院が各地方と連絡された。石工は鋭い鑿で碑文を刻み、地を掘り実用的な広大な貯水池や、数千の聖池を作つた。一方、各時代を通じ、国境では外敵と戦ひ、町から町へと勢力を伸ばして行つた。同時に数多の神々を祀り、信仰のために黄金と聖堂とが川と鎔かされ、多くの聖堂は礼拝像の海と化した。忍耐強くその目録を作ろうとしても、今日残つてゐるものを数へ上げることすら諦めねばならない。

 そうしてアンコオル地方誌、首都の建設と建築、古都内と外の建造物、美術と工芸、その芸術の変遷が語られていく。その語り口は写真図版と寄り添い、アンコオルの神秘を伝え、浮かび上がらせていくトーンに包まれている。こうした大東亜戦時下の一冊を読んでいたのは、どのような読者だったのだろうか。

 いやそれは読者ばかりでなく、出版者や編集者のことも問われなければならない。奥付の刊行者として、松川健文の名前が記されている。昭和五十五年に京都の同朋舎から三宅一郎、中村哲郎の『考証真臘風土記』が出された。これは『オリエンタリストの憂鬱』でもふれられている元朝の周達観の『真臘風土記』 の考証で、レミュザとペリオの二人のフランス人による訳の「前言」や「序説」も収録されている。
真臘風土記

 十三世紀末に中国語で書かれた当時のカンボジア民俗誌に立ち入ることはできないが、この考証版は昭和十九年に刊行予定で、北京で書かれた共著者二人の「あとがき」も収録されている。しかも三宅のそれは中村の死も伝え、同書の刊行を見ずして、不帰の客となったことが記されている。それに加えて、「七七年二月」付で、昭和十九年十二月に「原稿を法蔵館の東京代表者のであつた松川健文氏に渡し」た。ところが戦後になって松川と会ったところ、東京での出版は不可能で、原稿さえも烏有に帰する状態となったことから、それを京都の法蔵館に預けたという。しかしそれが法蔵館の倉庫から発見されたのは昭和四十八年になってからのことで、ようやく同朋舎からの刊行を見たことになる。

 そのことはひとまず置き、松川のことだが、彼はグロリエの『アンコオル遺蹟』の刊行者であったことからすれば、昭和十八年には新紀元社の経営者だった。ところが企業整備と絡んでいるのだろうが、十九年には法蔵館の東京代表者となり、三宅たちとの関係も続いていたことを示している。だがこの松川とは本連載411で挙げたポルノグラフィ出版関係者の松川健文と同名であり、同一人物と見なしてかまわないだろう。

 どうして松川がそのように転回していったのかは不明だが、戦前から戦後にかけての出版は複雑で、入り組んだ位相と状況のもとに置かれていたことだけは了承されるのである。


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