前々回、武蔵野書院の『詩・現実』にふれ、そこに伊藤整も辻野久憲、永松定との共訳で、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシイズ』を連載したことを既述しておいた。
その伊藤の長編小説『若い詩人の肖像』(新潮文庫)は自伝であると同時に、大正時代後半の詩人と詩誌の状況を浮かび上がらせている。そのチャートを示せば、大正十三年に創刊された『日本詩人』(新潮社)が当時の詩壇の代表的な雑誌で、その編集は「詩話会」のメンバーである川路柳紅、萩原朔太郎、百田宗治、室生犀星、佐藤惣之助、福士幸二郎たちによっていた。その頃、詩を書き始めた伊藤はこの雑誌を定期購読し、詩壇における一般的な詩の形式や表現法を学んだ。その特色は近代日本詩史の中で、韻律の支配を受けず、また意味が明白なことだった。
そして大正末年になると、『日本詩人』と競合するようなかたちで、北原白秋の『近代風景』(アルス)、内藤鋠策の『抒情詩』(抒情詩社)、大藤治郎編輯『詩聖』(玄文社)、渡辺渡創刊の小野十三郎、草野心平、吉田一穂たちの『太平洋詩人』(太平洋詩人協会)、田中清一編輯『詩神』(聚芳閣)、百田宗治の『椎の木』(椎の木社)などが出されていった。
(『椎の木』、三人社復刻版)
ちょうど伊藤は処女詩集『雪明りの路』を自費出版しようとしていたので、百田に手紙を書き、その発行所に椎の木社の名前を借りたいと申し出た。それは了承されたばかりでなく、百田は『椎の木』創刊号に一ページ広告を出してくれたのであり、伊藤の処女詩集は最初から恵まれていたといえよう。さらに献本した『月明りの路』に対し高村光太郎から賞讃の葉書が届き、丸山薫や三好達治などの書評も出て、伊藤は北海道の中学教師から詩壇における詩人として認知され始めた。伊藤は『若い詩人の肖像』の中で書いている。この昭和の初期が自分にとって最も幸福な時で、数え年二十三歳の青年詩人として、詩集も多くの賞讃によって迎えられたと。
(日本図書センター復刻)
それに加えて、伊藤は東京商大の入学試験も兼ね、百田を訪ねた。そして三好や丸山とも知り合い、昭和三年からは大学に通い始め、さらに百田を介して北川冬彦と出会い、梶井基次郎にも紹介される。二人は三好や淀野隆三たちも含め、『青空』の同人で、麻生の飯倉片町の素人下宿に同宿していた。やはりそこで同宿することになった伊藤はとりわけ梶井に心を引かれた。それは彼が「自分自身を整理し切っており、文学という魔術にもたれかかっていない大人、という感じがした。それが私を、おや、この男は違う、と思わせた。その落ちついた明るさには、他人の考えを受け容れ、他人を頼らせるような余裕が感じられた」からだ。
そして北川冬彦とその詩に関しても言及される。彼の詩集『検温器と花』に見られるように、「私が書いていた自由詩系統と違って、唐突なイメージを対比させ、一種のドギツイ効果を出すものであったから」「奇妙な歪んだイメージの風景描写詩だ」と思われたのである。さらに実際に北川の詩も引用され、これから『詩・現実』にも具体的な記述に至るのではないかと考えられる。だが伊藤は父の危篤の知らせを受け、夜汽車で上野を発ち、父の一生を考え、涙を流してしまう。そこで唐突に『若い詩人の肖像』は終わってしまうのである。
(『検温器と花』、日本近代文学館復刻)
しかし幸いなことに、『若い詩人の肖像』が収録されている新潮社版『伊藤整全集』第6巻には、その後日譚としても読める「詩人伝」という短編が見つかる。これは百田の家で知り合った宍戸儀一が昭和二十九年に四十九歳で死んだことをきっかけとして書かれている。そこにようやく『詩・現実』が出てくる。
春山行夫と北川冬彦が編輯人になって、厚生閣から「詩と詩論」という季刊雑誌をこの年の三年ほど前に創刊した。その雑誌は、超現実主義と形式主義による新風をもたらし、大正期の詩人たちの詩風に反抗したグループを作っていた。もっともその雑誌には、三好達治と吉田一穂、佐藤一英というような古典派が居り、また西脇順三郎、北園克衛、上田敏雄、滝口修造、原研吉という超現実主義者もいて不統一であり、かつまた北川冬彦はマルクス主義の影響を受けて、編輯当事者の春山と意見が合わず、この昭和六年に分裂した。北川は淀野隆三や三好達治などの第三高等学校の同窓生と共に、別な季刊雑誌「詩・現実」を作った。
おそらく春山行夫が昭和七年に『詩と詩論』を改題し、『文学』を発刊したのはこのような北川と『詩・現実』の創刊も影響しているのだろう。しかもその第二冊はジョイス特集で、『ユリシイズ』の訳者の伊藤や永松たちも動員されているのは、春山の編集者としてのポジションの反映であろう。伊藤によれば、「私の印象では、『詩と詩論』は、昭和詩人たちの出発として、画期的なもの」だったとされるが、昭和六、七年にはすでのポスト『詩と詩論』時代を迎えていたのではないだろうか。
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