前回の伊藤整『若い詩人の肖像』の中で、伊藤は昭和三年四月に上京し、北川冬彦と梶井基次郎たちの麻布の飯倉片町にある素人下宿に移り住む。すると北川からその谷底の路地に島崎藤村が住んでいると教えられる。すでに梶井は訪ねていたようだ。
伊藤も実際にその家を目にする。それは「いかにも日当りの悪そうな二階家」で、階下に格子窓があり、「島崎藤村はこんな所に住んでいるのか、と私は思った」。藤村は『新生』に描かれる実姪との恋愛事件をおこし、フランスへ逃れ、それから日本へ戻り、大正七年頃からその家に住んでいたようで、伊藤は続けている。
島崎藤村という、明治から大正にかけての文壇の第一線の小説家、そして近代日本の詩の創始者のような大家が住む家として、その家が特に貧弱だとは私は思わなかった。しかし、私が偶然移り住んだこの飯倉一丁目の、私の下宿の鼻先に彼の家があるというのは、少し突然な感じがした。
そして五月の初めに伊藤は半白の髪に着物姿で日和下駄をはき、「買いものの包みをさげた老人」に出会う。それは写真で見ていた藤村よりもずっと老けていたが、彼自身に他ならなかった。
私は稲妻のような早さで、自分が十六歳の時に読んだ藤村詩集が私を市の世界に引き込んだことを考え、その詩集の口絵写真にあった若々しい三十歳ぐらいの島崎藤村が、いま多分六十歳近くになって、自分の前に立っていることを考えた。そこにいるのが島崎藤村だということが、私には当り前のように思われ、またあり得べからざることのように思われた。これがあの島崎藤村だと思うと、私の背中を軽い戦きのようなものが走った。
この「自分が十六歳の時に読んだ藤村詩集」は『伊藤整』(「新潮文学アルバム」66)に書影と藤村の口絵写真も掲載され、それが春陽堂版『藤村詩集』だと確認できる。しかしこの伊藤の藤村との遭遇は「軽い戦き」だけで終わったのではなく、戦後に至るまで「明治から大正にかけての文壇の第一線の小説家」「近代日本の詩の創始者のような大家」のイメージとして、伊藤の内部でさらなる波紋を拡げていったように思われる。
(『藤村詩集』)
伊藤は昭和二十八年から全十八巻に及ぶ『日本文壇史』(講談社)を刊行し始めるが、そこで最も自らを投影して描いているのは藤村であり、彼を含めた『文学界』の人々ではないだろうか。とりわけ藤村が信州で『破戒』を書き進め、それを「緑陰叢書」の一冊として、取次の上田屋から自費出版するまでの物語、及び北村透谷の自死に至る過程は『日本文壇史』の白眉といっていいのではないだろうか。
また当の藤村にしても、大正時代の飯倉での「感想集」を『飯倉だより』として、大正十一年にアルスから刊行している。私の所持しているのは同年九月六版とあるけれど、この時代にも、藤村は「文壇の第一線の小説家」であり続けていたはずだ。それはともかく、同書にも藤村の口絵写真が掲載され、半白の髪の着物姿で、おそらく伊藤が遭遇した藤村は、このポートレートに近かったと思われる。
この『飯倉だより』は「感想集」とあるように、様々な雑誌などに発売したエッセイなどが主体だと推測されるが、そのうちのかなり長い二十ページほどの「北村透谷二十七回忌に」は、それこそ若かりし頃の島崎藤村の姿が重なっている。藤村は「私が初めて透谷に逢つたのは麹町三番町にあつた巌本善治氏の家の応接間で、透谷は二十五歳、私はまだ漸く二十一歳の青年であつた」と始めている。そして「私の透谷を愛する心はそれから三年の後、彼が僅かに二十七歳で早く斯の世を去つた時まで続いて行つたばかりでなく、その心は死後になつてますます深くなつて行つた」と続いていく。さらにまた透谷の絶筆の評伝『エマルソン』(民友社)は、藤村が未完成の原稿を整理したものの、また遺稿としての『透谷集』(文学界雑誌社)も藤村によって編まれ校正され、七百部を印刷し、そのまま絶版にしたという出版にまつわるエピソードも語られている。そして藤村は告白する。「彼こそはまことの天才と呼ばれる人であつたと思ふ」と。
そうして藤村は透谷の短く先駆的な生涯を紹介していくのである。これは透谷をモデルとする『春』の要約とも見なせるので、これ以上トレースしないけれど、伊藤も『日本文壇史』において、透谷を書くに当たって、これらを参照しているはずだ。その際にも伊藤は飯倉の路地で藤村と遭遇したことを思い浮かべていたにちがいない。
(日本近代文学館復刻)
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