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古本夜話1051 新潮社と『生田春月全集』

 昭和五年十二月に新潮社から『生田春月全集』全十巻の刊行が始まった。『新潮社四十年』は「新潮社出版年史」において、「その思想的煩悶の為めに昭和五年五月海に投じて死するに際し、書を遺して、全集出版の事を託された。即ち『生田春月全集』全十巻を刊行して、この縁故深き詩人の霊に捧げたのである」と述べている。また同書には『生田春月全集』のカラー内容見本も掲載され、それが昭和二年の『世界文学全集』と同じ「予約出版」形式での出版だとわかる。このような春月の死から半年後の迅速な全集の刊行は、あらためて予約出版に基づく昭和円本時代が続いていたことを示唆していよう。
 f:id:OdaMitsuo:20200704172533j:plain   f:id:OdaMitsuo:20190208103344j:plain:h113(『世界文学全集』)

 この『生田春月全集』第一巻を入手している。函無し裸本だが、この一冊には前回挙げた大正六年の処女詩集『霊魂の秋』を始めとする八詩集が収録されている。しかも巻末の「全十巻目次」を見ると、第二、三巻も翻訳も含めた詩集、第三、四、五巻は小説、第七、八、九巻は感想集、及び雑篇、第十巻は評論集とあり、三十八歳の短い生涯にあって、春月が大正時代を通じて、詩人、翻訳者、小説家、それにこの言葉はよく使われていたのかわからないけれど、感想家として、本当に多くの作品を残したと実感させてくれる。
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 しかも第一巻の『霊魂の秋』はそのタイトルの章だけでなく、「シンプル・ハアト」「我が画廊より」「一詩人の言葉」「Taedium vitae」「道化者として」「心の放浪」「落穂びろひ」という全九章、百余の詩からなり、それらは一九〇九年から一六年、すなわち明治四十二年から大正五年にかけての作品とされる。その年代から判断すると、前回既述しておいたように、春月が上京し、生田長江の家に身を寄せたのは明治四十二年十七歳の時だったはずなので、上京後に詩作されたと考えられる。それらの『霊魂の秋』に残りの七詩集の作品を加えると、この第一巻に上下二段組で六百作近くがぎっしりと収録されていることになる。

 さらに第二、三巻も詩集であり、それらに翻訳が含まれているにしても、春月は膨大な詩を書いていたのであり、その詩の流れから、自動記述のようにして書かれていたのではないかというイメージすらももたらされる。これはやはり上下二段組、八ページに及ぶ「自序」からも伝わってくる。これは次のように書き出されている

 あまりにも早く墓の彼方に運ばれし生命(いのち)よ。それは春の夜のおぼろなる花かげを忍びやかに通り過ぎたあの微風ではなかつたか? 夏の夜の地平線の上に明滅した稲妻の一閃ではなかつたか? いずれにしても、それは白昼のものではなかつた――あゝ、我が青春よ、我が青春の夢よ、我が青春の嘆きよ!

 それに続いて、「あゝ、青春の日は貧しき歩行者の上に、いかに速かに暮れるであらう!」とさらに「青春」がリピートされ、春月の詩が「青春の夢」と「嘆き」をモチーフとすることを暗示している。そして「私は『未だ認められずにして已に忘られた詩人』である」し、「これが私の運命」とも称される。この告白は所謂ロマン主義者の先天的な挫折の観念へともリンクしていく一方で、そのことによって「失はれたる幸福の歌」を形成する。それは「楽しむ事なくして永遠に返る日なく失はれてしまつた青春の輓歌である」し、そのような詩を通じて、「自分のやうなものでも、なお何等かの足跡を此世に残して置きたい」からだ。

 そして「霊魂の秋」の最初の詩「断篇」へと移っていく。その第一連だけを引いてみる。

   あはれわが胸こそ
   あめつちのあやしき鏡、
   悲しくも、嬉しも、うつるが儘に
   くもりてはまた照れど、
   よろこびは消えやすく
   かなしみはながくとどまる。
   くだくるまでは眠りがたきに
   絶えず人の世の影をうつして、
   とこしへに止む日もあらぬ
   なげきをぞする。

 おそらく大正時代には春月のような思いに捉われた若い詩人や読者たちが多く出現していたにちがいない。それらの人々が春月の多くの作品を支えていたのであり、この第一巻の詩集を通読し、あらためて大正がそのような時代だったと確認できよう。そのことは巻末に「生田春月遺稿進呈」という「抽籤券」が添付され、その番号が3117である事実にも表出している。これは第一巻の全冊に添付されていると推測されるので、この全集の予約購読者数は三千人を超えていたのであろう。

 また奥付のところに「編輯者」として、生田花世と生田博孝の名前が並記されているが、これは後に戸田房子『詩人の妻 生田花世』(新潮社、昭和六十一年)を読み、了承することになった。同書によれば、全集刊行が始まる前に、新潮社で印税をどうするかの話し合いがもたれた。遺産継承者は妻の花世、春月の両親はすでに亡くなっていたので、米子市に住む末弟の生田博孝であり、新潮社の意向として、「著作権は半々にしたら、どうかというもの」で、中村武羅夫や加藤武雄たちはそれに賛同した。花世は春月の「自分が死んだあと、すべてのものを妻の花世に遺す」という遺言状を差し出したが、それは何年かの記載がなく、酒に酔った時に花世に強要されて書いたという印象を与え、採用されず、「半分と決まったのだった」。
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 戸田はもちろんそれに関してフォローしている。「花世はその決定に強い不満をもった。誰一人自分の立場を理解してくれない。春月の仕事にいかに協力したか、妻の協力があったからこそ、あれだけの著述が出来たのだ」と。だがどうして「編輯者」の表記が二人に付せられたのかには言及していない。それはどのような事情があったからなのだろうか。


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