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古本夜話1054 生田花世と横瀬夜雨編『明治初年の世相』

 横瀬夜雨は中村武羅夫の『明治大正の文学者』には出てこないけれど、『現代詩人全集』では『河井醉茗集・横瀬夜雨集・伊良子清白集』として一冊が編まれている。また戸田房子の『詩人の妻 生田花世』において、夜雨は花世の詩作の師として登場している。
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 『現代詩人全集』第四巻収録の三人は『近代出版史探索Ⅱ』221の山県悌三郎の内外出版協会の投書雑誌『文庫』派三羽烏と称され、この一巻はそれを象徴しているといえよう。その記者や選者だった醉茗によって、夜雨も清白も見出されていた。明治三十八年に、野口竹次郎が『女子文壇』を創刊し、四〇年から醉茗が編輯主任を務め、夜雨もその詩欄の選者となり、花世の詩が当選した。それからの夜雨と花世のことは『日本近代文学大事典』によるよりも、戸田房子に語らせたほうがいいだろう。
近代出版史探索Ⅱ

 彼は茨城県真壁郡横根村の豪農の二男だったが、幼い時に佝僂病にかかり、十五歳の頃には歩行も困難な躰になってしまった。したがって学歴は小学校だけで、あとは自宅の二階にこもり、読書と詩作にふける日を送っていた。逃れられない病苦を負った孤独な夜雨にとって、「文庫」の存在は大きな慰めであり、詩は生きるよりどころであった。彼は強靭な克己心で詩境を開拓していった。筑波山や利根川、武蔵野など、生れ育ち、親しく目にしていた郷土の山河を繰返し歌い、名を成したのだった。
 当時文学に憧れて、「女子文壇」に寄っていた投稿少女たちは、夜雨のロマンチシズムの濃い恋愛詩や抒情詩に娘心をゆすぶられ、病む青年詩人にひそかな思慕をよせるものが少なくなかった。文通での指導を受けているうちに、花世も、師の一生解放される望みのない病苦が痛ましく、側にいて助けてあげたいという思いが募っていった。彼女は人並みに生れなかった自分の躰を省みて、結婚の相手には病弱な身障者がふさわしい、とひそかに考えていたのだった。師に対する敬愛はやがてひたむきな思慕に変っていった。

 すると夜雨からも自分の許にきてほしいとの申し出があった。だが花世の父は許してくれず、彼女は自分の感情を殺すしかなかったけれど、そのうちに夜雨が他の少女を愛し始めたようなので、自然に遠ざかることになった。

 少しばかり長い引用と補足になってしまったが、明治末期の詩人としての夜雨のイメージ、及び生田花世の前史の一端を伝えられたであろうか。

 これは生田花世とクロスしていないし、しかも三十年近く前になるはずだが、浜松の時代舎で、横瀬夜雨編『明治初年の世相』を購入している。同書は昭和二年に新潮社から出された一冊で、その後見かけていないことからすれば、貴重な文献資料であるかもしれないし、色彩鮮やかな明治初年の錦絵からなる造本の古書価は四千円とされている。
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 この『明治初年の世相』は夜雨の詩人としての仕事とは別の、祖父が蒐集した資料に基づく世相史や歴史考証であり、やはり同時期に『天狗騒ぎ』(改造社)や『太政官時代』(梓書房)なども上梓されているようだが、これらは未見である。『明治初年の世相』の「序」は思いがけずに内田魯庵によるもので、昭和二年の時点で、「明治初期の研究は近時の最も興味ある題目の一つ」だが、「有体に云へば明治の研究はマダ漸く緒に就いたばかり」で、「所詮は今日は材料蒐集の時代」だと述べている。
f:id:OdaMitsuo:20200715152046p:plain:h120(崙書房復刻版)

 明治初年からすでに六十年が過ぎているので、「マダ正確なる歴史の現れない」との言は、この時代に多くの資料の集積を見ているにもかかわらず、いまだもって正確な明治の歴史が立ち上がってこないことを意味していよう。それは私たちにしても、戦後六十年に当たる平成末期を迎えても、敗戦と占領の現実を充全に把握しているかどうかは疑問であることと通底しているのだろう。そのような中にあって、「夜雨は先代から伝ふる明治前後の雑誌三十四種を蔵す。病臥摂養の傍ら反復精読して随時抄録し、類別編纂して厖然たる一巻をなした」のが、この『明治初年の世相』ということになる。

 魯庵の「序」に続いて、夜雨の「緒言」が置かれ、同書編纂の事情と経緯、その背景がうかがわれる。夜雨によれば、関東大震災時に古い三種の土蔵が崩れ、建て直すためにその中のものを運び出させたら、「こんなものが何処に入つてゐたらうと思ふ書き物もあつた。維新前後の数ばかり沢山な新聞も始めて見たのである」。それを昨秋、河井醉茗が見て、「えらいものを持つてゐる」といったので、その重要さに気づいた。

 それから『近代出版史探索Ⅱ』234の大原社会問題研究所の高野岩三郎博士が譲り受けたいとのことで、木村毅から醉茗を通じて申しこまれてきた。魯庵もそれに賛成であり、夜雨も「貴重な文献であつて、其散佚は国家的損害だとすれば、お譲りする事に異議の有りやら筈はない」と述べている。その行く末にはふれられていないが、大原社会問題研究所へ譲渡されたと思われる。このような明治文献資料の収集は魯庵や木村の名前から推測されるように、日本評論社の『明治文化全集』の編纂も進んでいたことと密接に結びついていたはずだ。

 夜雨はそれらを譲渡する前に、『明治初年の世相』と題するアンソロジーを編んだ。その「覚え書」で、彼は「此小さな本」と断わっているが、取り上げられた項目は六百余に及んでいる。それらはことごとく明治初年のリアルタイムの出来事や事件などのレポートと見なしていいし、新聞というメディアの始まりの機能を示して興味深い。それは醉茗を通じて『現代詩人全集』を企画中だった新潮社に伝えられ、当然のことながら、日本評論社の『明治文化全集』の進行は知っていたこともあり、夜雨の明治初年新聞アンソロジーは新潮社で刊行することになったのではないだろうか。
f:id:OdaMitsuo:20200708145214j:plain:h115(『現代詩人全集』)

 残念なことに『新潮社四十年』や『新潮社七十年』には単行本ゆえに取り上げられていないけれど、そのように考えても間違っていないと思われる。


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